2020年5月3日日曜日

ステイホーム、その先 ー「緊急事態宣言」によせて  


 ★疫病という名の戦争状態
 アルベール・カミュは『ペスト』(宮崎峰雄訳 新潮文庫)のなかに「この世には戦争とおなじくらいのたくさんのペストがあった。だが、ペストや戦争がやってくるとき、人々はいつも同じように無防備な状態にあった」と記している。
今回の新型コロナウイス報道において西欧諸国のトップはいずれも「戦争」表現と重ねた。
仏国のマクロン大統領は 325日、仏軍が設営した野営病院をマスク姿で視察し、国民向けにウイルスへの挑戦を「戦争」と呼び、治療にあたる医師や看護師らを「最前線にいる人たち」と讃え、416日には外出禁止令を発して、「国民はこの戦争で一つにならなければならない」と述べている。
 独国のメルケル首相は318日、国民向け演説で 感染拡大は 第二次大戦以来の最大の試練とし、旧東ドイツで育った自らの体験を重ね「移動の自由」の尊さを「知っている」としながら、いまは命を救うために禁止令は必要だと「戦争」ということばは避けた。米国のトランプ大統領は、最初から新コロナウイルスを経済戦争の火種として好戦的な発言で押し通した。
 ★いのちを救う野戦病院
そんななかで戦闘態勢を「野戦病院の開設」という表現にこめた英国の態度は際立っていた。
 【ロンドン共同】英政府は4月3日2012年のロンドン五輪で競技施設として使用されたイベント会場内に巨大な「野戦病院」を開設した。新型コロナ感染者が急増する中、病床不足を解消するのが狙い。近代看護の生みの親とも呼ばれる英国の看護師にちなみ「ナイチンゲール病院」と命名した。ベッド数は当初の500床から4000床に。転用にかかった日数は9日。開設の式典には、コロナ感染症から回復したチャールズ皇太子(71歳)がビデオ電話で参加。ナイチンゲールが戦地で多くの病人らに「希望と癒やしをもたらしたように、この場所も人々にとって輝く光となるだろう」とメッセージを送った。
フローレンス・ナイチンゲール(18201910)といえば、185438人の看護婦を率いてクリミア戦争の後方基地のスクタリで傷病兵の看護にあたり〈クリミアの天使〉と呼ばれた。野戦病院は極めて不衛生で、必要な物資はほとんど供給されていなかった。病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことにおどろき、便所掃除から病院のしごとを始めたほどだった。彼女は、戦場で死んだ多くの兵士は戦死したのではなく劣悪な医療・衛生環境のために死んだ、と本国に報告し、清潔な衣類や食器から日用品、タオル・歯ブラシまでを野戦病院にとどけさせた。それだけで半年後にはで死者数が激減したといわれている。
 ★新鮮な空気と陽光
ナイチンゲールといえば名著『看護覚え書き』(1859)で知られているが、この本は看護師が看護を体得する際の考え方を述べたものでも看護教育の手引書でもない。
冒頭から「病気はすべて回復過程にある」として次のように続く。
看護とは 新鮮な空気や陽光、暖かさをや清潔さや静かさを 適正に保ち食事を適切に選び管理すること。すなわち患者にとっての生命力の消耗が最小になるようにして、これら全てを適切に行うことである。(小林章夫・竹内喜訳 うぶすな書房版)
もう一つ、重要な著作として『病院覚え書き』(1863)を添えたい。そこには「病院がそなえているべき第1の条件は病人に害をあたえてはいけない」と述べ、患者の回復を助ける病棟建築として、200床の広さのワンルームを考案し、ベッドごとに天井まで延びた3層の窓が1つある構造で、一番高い窓を常時開放しておけば、病室の空気はいつでも新鮮さを保てる「パビリオン式」設計と呼ばれ、今日の病院病棟設計に大きな影響を与えた。ベッドの高さやベッド間の距離についても理想的な計算値が述べられている。
これら一連の仕事は、クリミア戦争で自ら体験した野戦病院での看護姿勢となにひとつ変わっていない。野戦病院とは、戦場の後方で戦線の傷病兵を収容し、回復させる病院のことだ。新型コロナウイルスと戦わない!で人を救う。むしろウイルスとの共生・共存の道がさぐられている。今回、英国が新コロナウイルス戦略で採った姿勢は、野戦病院の使命をナイチンゲール病院と命名することで際立たせたようにみえる。
 
では、わが国はどんな意思決定をしたのか。安倍首相の「緊急事態宣言」(47日)には主要国が示した「戦争」という表現はなかった。「ロックダウン(都市封鎖)」の指示もなかった。また、“戦後”体制をとって70年、自衛隊の活動を封印して国民へのウイルスに対策と指示は「密閉・密集・密接」を避けること。そして「ステイホーム」という旗を掲げて、防御にはアベノマスク2枚と、10万円給付というパターナリズムであった。
ここで論評はさけたい。ステイホームのその先に暮らしの道筋が見えているわけではない。けれど、人はこんな不安定な宙ぶらりんな状態にあっても「ネガティブ・ケイパビリティ」(回避せずに耐え抜く負の能力)をもっているという(帚木蓬生 精神科医・作家)。いまはステイホーム、マスクをしながら、耐えたいとおもう。(4月29日記す)

2020年2月9日日曜日

「もしものとき」のメッセージ。 ―「人生会議」ポスターから


 昨年の師走を前にした令和元年1130日は「人生会議」の日だった。「人生会議」とは、もしものときのために自分が望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと話し合い、共有する取組のこと。人生100年時代の「(人生最終段階の)意思決定支援」を掲げたACP(advance care planning)運動の一環だったが、勧進元の厚労省が作成した「人生会議」PRポスター「命の危機が迫った時、想いは正しく伝わらない。『人生会議しとこ』」は、公開と同時に患者団体や患者や家族を傷つける内容だったと謝罪して掲載を急ぎ停止した。たしかに街からは消えたがSNSに流れていった。

A)「命の危機が迫った時、想いは正しく伝わらない」(厚労省)
 たしかに。「まてまてまて 僕の人生ここで終わり? 大事なこと何にもつたえてなかったわ」からはじまるメッセージは関西弁。わたしが訊ねたポスターの感想は一様に「キモチ ワリィ」の一言だった。悶え苦しむ末期患者の姿だけが際立っていて、終末期の意思決定支援のメッセージには見えない。芸能タレントを起用した関西の芸能プロダクションの制作で、廃棄したポスターの数は15千枚だったと聞いた。
 けれど、「人生会議」に協賛した公開ポスターは他にも目にすることができた、ここからは私が目にした十数枚から、「人生会議の日」に思いを託した市民メッセージ(声)を書き写し紹介してみたい。
 
B)「お年寄りの生き方に耳を傾けよう」(沖縄県)
 沖縄県からのメッセージは「人生ゆんたく」。元気な高齢者の大笑い。「私達の生き方を聞いてもらおう」という。ちなみに「ゆんたく」とは「おしゃべり」、おはなし。

C)「人生、最後のタバコの火をつけるのは介護職員」(民間介護施設)
 (ベッドで煙草を吸う要介護者の写真をバックに以下のメッセージが添えられてい。)
  タバコの好きな人だった。酸素も七リットルを超えていた。
  お部屋で吸うことは禁止されていたけど、
  最後のタバコに火をつけるのは介護職員。
  家族からは最後の最後まで本人の希望を叶えてくれて、
  ありがとうと感謝の言葉を頂いた。
  じいちゃんの人生会議は見事に幕を閉じた。

D)「言葉はなくとも囲んで話すと思いがみえてくる‥」
 (笑顔の患者の子どもと女医の写真の周りにメッセージが添えられている)
  彼女は「言葉」では何も話さない。彼女のしぐさと表情を、
  彼女のことを大好きな人たちで、一生懸命受止めて、一生懸命考えて、
  ひとつひとつ、丁寧に選んでいく。だから周りが勝手に決めたんじゃない、
  彼女が決めてるんだ、と確認できる。これも「人生会議」のひとつのカタチ。

E)「決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう」(民間クリニック)
 (父親の往年のライダー姿をバックに文章が書き込まれている)
 
「どこで死にたいか、病気になった時どうしたいか。そんな話ばかりしなくてもい。
何が好きか、何を大切にしているのか。決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう。
47歳で見つかったステージ4の肺がん。根本的な治療は難しい段階だった。病気の苦しみは本人からも自分らしさを奪う。
大切にしていた娘のソフトボールの試合の応援。もう無理かな‥。
あなたを知るみんなと一緒に迷いながら選んで進む。体の調子だけをみていたら、行かないほうがいい。でも、彼らしさを共有したら、行かないのはありえない。
そう思えた。行けるさ、行こう。
家族一緒だった。たくさん話し、迷った先にみんなで出した答え。
4番ピッチャーの娘は大活躍。無失点でのコールド勝ち。ナイスピッチング!
勝利を喜ぶ笑顔と大きな声は病気の重さを少しも感じさせなかった。人はいつどんな時でも、誰かの力になれる。試合の翌日、自宅に戻り息を引き取った。旅立って5年、娘は地元開催の国体で県代表のエースになった。お父さんはきっと言ってくれるとおもう。ナイスピッチングって。
決めなくていいから、いっぱい話をしよう。こんなとき、私は、あの人はどんな選択をするだろう。」
  *
 これらは「人生最終段階の意思や責任」を取り込むつもりだった厚労省の企画をはるかに超えた、市民の真正でかつ正直な願いである。
「人生の最終段階の想いや願い」は、インフォームドコンセント(わたしは説明しました、あなたは説明を聞きました)といった臨床の場における責任や意思確認のことではない。 伝わってくるのは、人生最終段階の「いのち」の深さ、愛おしさであり、無条件で受けとめられる「ことば」にほかならない。これが厚労省のポスターを打ちのめした理由なのだ。

2019年10月15日火曜日

とまどう-「受容 」と「従容 」



 死ぬときぐらい好きにさせてよ
 平成から令和へ-この30年で大きく変わったことといえば、がんの告知が当たり前になったことだ。「画像診断PETCTMRIでは…ステージ2です」、まずはエビデンス(科学的根拠)から始まる。「新しい抗がん剤を試されると生存率はこれぐらいかわります…」「食べられなくなったら、胃ろうにしますか」「呼吸器はつけますか、つけませんか」。「さいごは在宅にしますか、ホスピスですか」

こんなやりとりによって、「人生最終段階の医療」態勢(ACP アドバンス・ケアプランニング)が整えられることになった(「人生会議」「もしバナゲーム」参照)。
 そんな医療を見限って「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ということばを遺して亡くなったのが樹木希林さん(2018年915日逝去)だった。そのセリフはこうだった(『樹木希林 120の遺言』)。
 人は必ず死ぬというのに/ 
 長生きを叶える技術ばかり進化して/
 なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。/ 
 死を疎むこともなく、死を焦れることもなく。/
 ひとつひとつの欲を手放して、/
 身じまいをしていきたいとおもうのです。/
 人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。             
希林さんが「全身がん」だったとはいえ、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とは、自死を願ったことばでも、自暴自棄から発したものでもなかった。

 死の臨床は感情労働である
 鳥取市内で有床診療所「野の花診療所」のホスピス医・徳永進さんの近著『「いのち」の現場でとまどう』(高草木光一編・岩波書店)からも、同じような訴えが聞こえた。
 その一つは「死の臨床(終末期)」が行政用語として「人生最終段階の医療」ということばに整えられたことにある。徳永医師は「臨床の定置網化」という表現で批判されていることだった。一言でいえば、どんなに医学が進んでも人の生と死を操作できるわけではない。「いのちの臨床は海だ」、それも「汽水域」だという。
 「汽水域」というのは海水と水が混ざり合う領域のこと。穏やかな光が届いているかとおもうと、冷たい風に波のうねりが加わり、高くなったり、水がにごったり。そこは医療の役割を担った資格者や専門家が取り囲んでも乗り切れる海ではないという。医療・看護・介護といえば、肉体労働だとも精神労働だとも言い難いところがある。そこでは、見えないが無心の「感情労働」が大きな力になるのだという。
 患者さんが亡くなったときに「やり通したね、頑張ったね」と医療者と患者さん家族が抱き合うことだってある。「医師と患者という関係をこえて、生身の人間を相手にした喜び、それが感情労働が力なんです。私は『第二感情労働』と呼んでいます」と。(ちなみに、「第一感情労働」とは、優しいふりをする人工的優しさ。さらに「患者さま」を口にする病院はインチキ、だという)

 「受容(じゅよう)」と「従容(しょうよう」
 それではもう一つ。人は人生の最終段階でどのような死を迎えるのか。
 数千人の人を看取ってきたホスピス医には死にゆく人の姿はどう映っているのか。「死を受容する」という表現が一般化しているが、徳永医師はそう看做してはいない。「受容」ではなく、むしろ「従容」としての死があるという。
「受容」と「従容」はどう違うのだろうか。「(死の)受容」という言葉はホスピス用語として知られている。1970年代にエリザベス・キュブラー・ロスの「死とその過程」五段階説で衝撃的に登場した。がん告知に始まり、否認、怒り、取引、抑うつ、そして最後が「受容」となる。外来の思想ながら日本の医療界でも「受容」は終末期の聖なるいのちの姿としてホスピス用語として定着してきた。
「彼は死を受容した」とは、理性で手繰れる言葉である。それだけに強制語になりやすかったのはたしかだった。
 これに対して「従容」とは「動じることなく、ゆったりとしているさま」であり、「従容として死に就く」というフレーズはわが風土に馴染んでいた。人生の最終段階には死に抗うことはなく、また積極的な「受容」のかたちでもない、自然死に通じている姿である。樹木希林さんの死への道標も「従容」だったのであろうか。

 徳永医師自らがモデルとなった新劇舞台「野の花ものがたり」を観たことがある。その関連インタビュー(『民藝の仲間』399号)のなかでこう語っている。
「(たくさんの人を看取ってきた感想を聞かれて)不思議なことに、みんな死んでいかれる実力をもっておられる。若くても、赤ちゃんも、青年も、99歳のおばあちゃんでも。おとついまでは目でしゃべられていてもふっと今日は死を遂げられる。 …人間の本質的なものとして、自分の死は多くの人に見られたくないと思っている」

 

2019年7月11日木曜日

「いのち」の位相をひもとく

 ─病院医療から地域包括ケアへ

 少子高齢化社会の真っ只中で元号が「平成」から「令和」に代わった。この間、わが国の医療水準・介護水準・栄養水準・衛生水準等どれをとっても飛躍的に高くなったことだけは疑えないだろう。
 では、「いのち」の位相はどう変化したのだろうか。
 私が引き出した視点は長寿社会の分岐点となる介護保険法の施行(2000年)である。ここから「病院の世紀から地域包括ケアへ」という汽水域に入ったのではないか。そこから、「いのち」の位相を繙いておく。

 ▶いのちの社会学
 ①『病院の世紀の理論』 猪飼周平 有斐閣(2010
 20世紀の医療は治療医学として病院を中核として診療所との二元的な医療システムで繁栄してきた。「3時間待って3分間医療」と揶揄される一方で「病院死」は1976年に「在宅死」を抜いて「病院で生まれ病院で死ぬ」社会が定着し、そのまま「予防・治療・福祉」を包括した地域ケアに向かったとされる。他に『日本の医療 制度と医療』島崎謙治・東大出版会(2011

 ②『ケアの社会学 ─当事者主権の福祉社会学へ』 上野千鶴子 太田出版(2011
 急所は「ケアをすること、ケアをされること」にふれた4つの権利(ケアする権利、ケアされる権利、ケアを強制されない権利、(不適切な)ケアされることを強制されない権利)。「よいケア」とはケアされる者とケアをする者双方の満足を含まなければいけない。また、介護保険制度は、ケアワークが「不払い労働から支払い労働になった」ことを画期的な成果の一つとし、さらに次世代福祉社会の構想にもふれている。
 関連しては大熊由紀子『物語 介護保険(上下)(岩波書店・2011)がある。因みに「介護」が国語辞典に登場するのは昭和53年(「広辞苑」)である。

 ③『ナラティブ・ベイスト・メディスン 編集 T・グリーンハル&B・ハーウィ ッツ 斎藤清二他訳 金剛出版(2001
 今日の医学は、エビデンス・ベイスト・メディスン(科学的根拠に基づいた医療)によって大きな成果をあげてきた。けれど、人はそれぞれ自分の「ナラティブ(物語り」を生きており、「病気」もまた、その人の物語の一部であること。そこに注目したもう一つの医療が「ナラティブ・ベイスト・メディスン」
 たとえば、治療が不可能な場合や高齢者のケアには、その人がどのような「物語」を生きようとするのか。患者は自分の病について物語るために医師のもとにやってくる。それに応え援助する「対話」が還りの医療や福祉介護に大きな道をひらいていったのである。

 ▶いのちの場所
 HUMANITUDE(ユマニチュード)』イヴ・ジネスト&マレスコッテ 本田美奈子監修 辻谷真一郎訳 トライアリスト東京(2014
 「ユマニチュード」とはフランス語で「人間らしさ」を意味する。本書は体育学を専攻した二人のフランス人による、認知症の人や高齢者など、ケアを必要とする人に向けたコミュニケーションの哲学であり、その技法を指している。具体的には「見る」「話す」「触れる」「立つ」という人間の特性に働きかけることでケアを受ける人に「自分が人間であること」「大切な存在であること」を伝える。わが国でも支持され広まったケアの技法の第一は「あなたに会いに来た」ことを示すことから始まる。その他、同著者による『「ユマニチュード」という革命』 誠文堂新光社(2016)がある。

 ⑤『「在宅ホスピス」という仕組み』 山崎章郎 新潮選書(2018
 平成2年(1990)、一般病院での悲惨な終末期医療の現状を訴え、ベストセラーとなった『病院で死ぬということ』(主婦の友社)から30年。ホスピス運動の旗を振り続けてきた著者の到達点。落ち着いた居場所は在宅診療専門診療所。年間100万人の介護者と150万人の病死者が日常となるという「2025年問題」を前にした、尊厳ある死を迎えるためのテキストといえる。
 関連して、都道府県別の老衰死率と在宅死率等の分析から捉えた『地域医療と暮らしのゆくえ』高山義浩 医学書院 2016)。さらに、地域共同体が崩れていく中で「看取り」の文化を継承する民家再生活動を立ち上げた女性たちの『ホームホスピス「かあさんの家」のつくり方』市原美穂 木星舎 2011)をあげておきたい。
 ※
 これらを「ひもとく」際に下支えしてくれた文献をここで補っておこう。『いのちとは何か 幸福ゲノム・病』本庶佑 岩波書店(2009)。『養育事典』芹沢俊介、山口康弘他編 明石書店(2014)。『中動態の世界』國分功一郎 医学書院(2017)。『バイオエシックス その継承と発展』丸山マサ美編 川島書店(2018)。そして『サピエンス全史』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社(2016)


2019年4月3日水曜日

「もしバナゲーム」ー“人生会議”(そのⅡ)



「終活」ということばは平成生まれ(2012年)の新語・流行語だ。人生さいごを迎える際の準備や始末を指す。一般的には葬儀や墓、遺産相続などが取り上げられることが多い。けれど、人生の最期にはもう一つ「いのちの始末」が先行している。終末期医療に介護など切実である。さらに尊厳死とか孤独死に平穏死といったことばも目につくようになった。一言でいえば、長生きする時代は死が見えるようにもなったことだ。そして医師はエビデンス(科学的根拠)から「そう遠くない日に…」とか「後1年です」と断言するかもしれない。そのとき、私たちはどう受け止め向き合うことができるだろうか。
ところが、そんな「もしものための話し合い」を想定した「もしバナゲーム」というカード遊びが巷に拡がっている。そこで遅ればせながら、ある街のデイサービス・カフェにでかけて、リクリエーション・ワークに参加してみた。その感想が以下である。

”人生会議”のゲーム化
カードは1セット36枚。そのうちの35枚には重い病気や、死が近づいたときの意思や願い事が書かれている。「祈る」の一言ですむかもしれないが、多くは友人や家族、さらには医師への訴えがゲームカードになっている。
「家で最期を迎える」「家族の負担にならない」だったり、「呼吸が苦しくない」とか「だれかの役に立つ」、「機械につながれていない」など。また、「自分が何を望むのか家族と確認することで口論を避ける」のカードもある。つまり系統だった言葉が用意されているのでもない。残りの1枚は「ワイルド・カード」で、独自の希望があるときに使う(例・「さいごは好きな楽曲を聴きたい」)。
一人遊びなら36枚のカードから、〈①私にとって、とても重要 ②私にとって、ある程度重要 ③私にとって、重要でない〉の3つに振り分けてみるといい。これまでは考えてもいなかった言葉が目に止まり、おもわず自身の死生観が見えてくるかもしれない。
私が加わった4人一組のレクリエーションルールをあげてみよう。
①各プレイヤーに5枚ずつカードを配り(計20枚)、次に場に5枚のカードを表向きに置く。残りのカードは中央に積む。
②プレイヤーは自分の順番が回ってきたら手札の中から不要なカードを一枚、場に置かれた札と交換する。その繰り返しで積み札がなくなったらゲーム終了。
③各人は手元にある5枚のカードから特に大事だとおもうカードを3枚選ぶ。選んだカードを開示して、みんなに説明する。
すると、「祈る」「自分の人生を振り返る」「不安がない」というカードを見せながら、もう1枚「誰かの役に立つ」のカードも捨てがたいと口にした男性がいた。また、「あらかじめ葬儀の準備をしておく」「お金の問題を整理しておく」の2枚を手にして、これで安心して逝くことができます、と微笑んだのは御婦人だった。もちろん、ここで第三者の批判があってはならない。
この場にもし、医師や看護師や介護関係者が参加していれば、どうなるだろうか。厚労省が昨年暮に「(終末期の)患者の意思決定支援」会議の愛称を「人生会議」と命名したACP(Advance Care Planning)の集う場面と重なっている(“人生会議”そのⅠ 参照)。つまり、「もしバナゲーム」は「人生会議」をそのまま遊戯化したものだともいえそうである。

終末期のゲームあそび
人生の最後の”願いや訴え”をことばカードにして遊戯化してしまう。
この力技はどこから引き出されるのだろうか。そんな問い方には、名著ホモ・ルーデンス(遊ぶひと)』ヨハン・ホイジンガ 1938年)を重ねてみることができる。そこには「遊び」こそホモ・サピエンス(賢いひと)である所以だ、人間と文化の本源的な要素だと述べられている。ちなみにホイジンガは遊戯という概念について、日本語の「遊び(名詞)」と「遊ぶ(動詞)」から、「緊張のゆるみ、娯楽、時間つぶし、気晴らし、物見遊山、賭け事、無為安逸、何かを演ずる、模倣する…」等、多彩でかつ深い「遊び」文化に言及(第2章)しているほどである。
また、学びは遊びから、ということばもある。スクール(学校)の始まりはスコーレ(遊び)からきている。あらためて “いのちことば”を集めてなった「もしバナゲーム」はホモ・ルーデンス(遊ぶひと)の強かさを示しているといっていいかもしれない。

2019年1月11日金曜日

”人生会議"  ー制度化された終末期ケアをめぐって



 《ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しましたー 人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について、愛称を「人生会議」に決定しましたのでお知らせします。》
      ☆
 上記は師走を前にした平成301130日(金)、厚労省のホームページ(照会先・医政局地域計画課)の掲示板である。
この見出しを読んでみて即座に理解できた人はどれだけいただろうか。ここでACP(advance care planning)とは、平成30年度診療報酬改定に際して、看取り加算の要件となった「(終末期の)患者の意思決定支援」に基づく「事前ケア計画」会議のこと。その愛称を公募した結果、千件を超える応募数から「人生会議」としたという報告だった。
「人生の最終段階の医療」とは、病院の延命治療に限らない在宅医療や介護の現場等での死を迎える時期をさしている。また、悪性腫瘍、心不全・呼吸不全等の時期や、認知症さらにはフレイル(健常から要介護へ移行する段階)でも終末期判断はある。医師が一年以内に亡くなるかもしれないと判断できそうならACP(人生会議)は奨励されるという。その際の主題になるのは、たとえば、
①人生最後を過ごしたい場所は?(自宅、病院、介護施設、その他)。
②自分で食べることができなくなり、回復もできないと判断された時の栄養手段は?(経鼻チューブ栄養、中心静脈栄養、胃ろう…)、
③医師が回復不能と判断した時に、してほしくないこと?(心肺蘇生、人工呼吸器、気管切開…)。さらに、④患者の意思確認が不可能な場合、誰に?(家族、代理人)等。
こんな重たいことを確かめ聞き出す会合を「人生会議」にしようというのだ。その会議には患者・家族を真ん中に主治医、看護師、ケアマネージャー、介護福祉士など多職種の医療ケアチームが取り囲んでいる「地域包括ケア」の構図と重なってみえる。
ここで意思決定のキーワードを思い浮かべると、けっして簡単ではない。家族との関係性、地域性、文化などがその人の価値観や意思決定に関わるからだ。話し合いは繰り返し行われることや、本人の希望が変わってもよいことも前提になる。それだけに戒めも必要であろう。心の準備ができていない人に決めることを要求したり、事前指示書の作成を目的にしてしまったり。
主役はあくまでも患者本人。患者の意思や心の揺れを見逃さないで、繰り返し話し合うことが求められる。
関連して厚労省は、1130日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」「人生の最終段階における医療・ケアについて考える日」と命名している。私達は今日、人生最後の死に方まで医療の手を借りないと生涯を全うすることができないということだろうか。
     ☆
ここで、在宅医の鐘ヶ江寿美子さん(佐賀県小城市)から聴いた“3つの死”を引き合いにしてみよう。
末期がんのOさん(78歳)との在宅診療初日のこと。Oさんは「私はこれまで、三度死んだんです」と語りだした。1つは40歳時の交通事故による左下肢切断(それに伴う職業の大転換)。2つは76歳時に余命1~2年とされた前立腺がん(ステージⅣ)。3つ目はその直後のレビー小体型認知症(幻視・幻聴)。この「三つの死」は当初は妻が聞き役だった。今度は医師が聞き手になった。そして2年後、妻に面倒かけたくないと自ら病院に入院し亡くなったという。「三つの死」はたしかに生きてきた徴、「生きてきてよかった」というOさんのメッセージだったのではないか、それが鐘ヶ江医師の感想だった。
「人生会議」とは、そんな聞き手、受けとめ手になる人によって、いのちを伴奏するケアのかたち」が整うことではないか。わたしたちはそれを「ファミリー・トライアングル」と呼んでいる。OさんにはB(家族)とC(医師)という陣形(三角形)ができている。声をかけ(コーチング)、目で合図する(アイ・コンタクト)と、「共にいる」ことに根ざした共感が支えになっている。三人目、三番目の役割が支えになるはずである。関連して、作家の柳田邦男さんには「二・五人称」という表現がある。一人称は私(患者)、二人称は家族や恋人、そして三人目の医師や看護師や介護の専門家は、患者や家族に寄りそっていく「二・五人称」の視線が大事だと。

2018年10月13日土曜日

看護という道標 -漱石の時代の看護(2)


●制度としての看護・介護
今年(2018年)は明治・大正・昭和・平成期を経て“明治150年”にあたる。この間、平均寿命は男女とも80歳を超え、100歳以上の長寿者は6万人を超えている。明治33(1900)年は男女とも44歳、昭和三〇(1955)年は男63歳・女68歳、そして平成三〇(2018)年は男81歳・女87歳(資料・厚生統計協会)。生涯余命の平均は40歳から80歳と2倍に、「人生40」から「人生80」になった。このライフサイクルに後れをとりながらも病院化社会(20世紀)、そして「介護社会」(21世紀)をむかえたということだろう。
 それだけに今日の医療は、病の治癒や健康だけを対象にしているわけではない。脳死・臓器移植医療から生殖医療、再生医療等の分野まで、生命操作が自在になって生と死の境界を押しひろげるまでになってきている。
 さらに、医療の高度化、病院化システムによって、臨床の場でも看護という職種は多様化、高度化・専門分化が進み、日本看護協会では「認定看護師」(救急看護、認知症看護、乳がん看護など21分野)や「専門看護師」(がん看護、家族支援、在宅看護など13分野)を積極的に奨励するなど、長寿・医療社会に欠かせない役職を身につけようとしている。
 そして介護保険制度は、サービスが始まった2000年度は介護認定者は156万人だったが、現在は600万人を超えている。認定を受けた人の8割は自宅、あるいは「自宅ではない在宅」(サービス付き高齢者向け住宅など)で利用するが、介護従業者はケアマネージャー(介護支援専門員)やホームヘルパー(訪問介護員)をはじめ、医師・看護師、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士、管理栄養士・調理員等、さらにデイサービスや介護施設で働く介護職員など180万人以上の従業者(19種類あるという)に支えられている。
 
道標としての看護・介護
そうした専門資格者に支えられた今日の社会にあって、「漱石の時代の介抱・看病・看護」(『看護師のための明治文学』 ※表紙画像をクリック)はどう見えるのだろうか。
 明治といえば西欧医学の導入(医制)は明治7年、看護婦学校も明治19年、派出看護婦が定着したのも明治30年代になってから。人生50年の時代、正岡子規は35歳、石川啄木は27歳、夏目漱石は49歳という生涯だったが、それぞれ看護への思い入れは強かった。
 わが国では早い時期にレントゲン体験をした一人の石川啄木は、これも導入されて間もない聴診器を胸にあてられ、「思うこと盗みきかるる如くにて つと胸を引きぬ  聴診器より」と不安がりながらも「看護婦が徹夜するまで わが病い わるくなれとも密かに願える」と、入院中に看護婦への甘美なおもいを歌にしている。
 正岡子規は「看護婦として病院で修業することは医師の助手なること」で介抱とは違う、「病人を介抱するというのは病人を慰めること」だと訴えている。
 夏目漱石は、看護婦が「50グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌を混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた際。余は雀の子か烏の子のような心持ちがした」とい、「それは(看護という)仕事に溶け込んでいる好意である」とさえ記している。
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 これら、明治の文豪が身をもって訴えていた事柄は今日の専門性と技術向上に向かう医療・看護からは置き去りにされ無視されることばになっているのだろうか。求めていたのは、「(患者の)いのちの物語に寄りそってほしい」という感情であろう。
「いのちの物語」とは「生・老・病・死」といういのちのできごと。ここで生はいのち、老いもいのち、病もいのち、死もいのち。そんないのちの物語に手をさしのべ寄りそうことが「看護の本源」。そう問いかけていたようにみえる。
 さらに補足すれば、「看護」という概念は抱擁・介抱、看病・介護、看取りをとりこんだ温かい「いのちことば」なのだ。