2017年10月10日火曜日

人生の午後

「人生、古来稀れ」というので70歳を古稀というが、100歳以上の超寿者はすでに6万人を超えている。100歳の人生設計を描くことが切実な時代に入った。その道標をいち早く示し自らがモデルとなった人が日野原重明さんだった。
この夏日野原さんは105歳でなくなったが、『生きていくあなたへ』(幻冬舎)という形でメッセージが遺されていた。全編が珠玉の語りことばで埋まっているが、その中からこころに留めたフレーズを引き合いにして、100歳人生を描いてみる。

〈人生の午後をどう生きるか。
 選ぶ物差し、価値観が必要で、自分の羅針盤を
 もたなくてはばらない。
 午後は午前より長いから。〉
ここで、老年期は「人生の午後」と規定され、青年期や成人期の羅針盤は役には立たないと明言されている。「人生の午後」は長いのである。
2000年、介護保険制度が誕生した年に、日野原さんは自身の90歳を記念して『生きかた上手』を出版し、総計120万部を超える売れ行きとなった。
そのテーマは「わたしは老人と呼ばれたい。それも新老人と」。あのとき、すでに「人生の午後」を生きる心構えが述べられ、人生の午後を生きる「新老人の会」も準備されていたのだった。「新老人」とは単なる元気な老人のことではない。「次の世代、若い人に、いつか来る人生の午後をいきる(新老人の)モデルになる」生き方が求められたのだった(『いのちを語る』)。
会のスローガンは、①愛すること、②創(はじ)めること、③耐えること。
なかでも、②の創めるとは、いくつになっても「(なにかを)創めること」を忘れない。新老人の規範そのものといっていいだろう。③の「耐えること」は人生の午後の生き方が問われるものだった。「耐える」という経験こそ、人としての感性が磨かれ、不幸な人への共感と支えることができる力が備わるのだとされた。
かくして「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)会員数は10万人に達したのだった。

〈人は傷を与えたことは忘れるが、
 人から受けた傷や攻撃はどうしても忘れられない。
 それは人を恕せない人間の愚かさのためなのだ。〉
日野原さんは子どものころから体は弱かった。日米戦争中、空襲下の東京で聖路加国際病院の内科医として患者の治療や火傷者の救済にあたった。1970年には「よど号」ハイジャック事件で4日間の機内監禁後に100名の乗客とともに奇跡的に空港に降り立った。
「私は足の裏にこの地球に無事帰ったことを感じた瞬間、私の命が与えられたのだと直感しました」。同時に「私は自分が生きているのではなく、生かされていることに感謝しました」。そして「妻と一緒に泣きながら、これから自分の命を人のために使おう」と決心した。それが人生の支えになった。
日野原さんの医療者としての業績では、1996年のオーム真理教の地下鉄サリン事件では中毒患者640人を聖路加国際病院に入院させて1人の死亡者以外の患者を助けたことで知られるが、医療行政への視点からは、まだ緩和ケアとかホスピスという用語も取り組みもない時代に「延命の医学から生命(いのち)を与えるケアへ」と題した講演(日本死の臨床研究会1980年)は画期的なものだった。身近な病気の話では、高血圧・がん・糖尿病等の「成人病」から「生活習慣病」命名(1996年)への尽力があげられる。
「私の朝の食事はコーヒーとジュースだけ。元気というのはあくまで気がもたらすもので、カロリーではありません。昼も牛乳一本とクッキーですませることがほとんどです。まるで水分だけで私は生きているようです」。
これは臨床医のことばではない。医師であるまえに独自な生き方と個性がつたわってくる新老人の生き方であり、この生活意思はさいごまで貫かれた。

  〈最近僕は、「運動不足」より「感動不足」のほうが
深刻なのではないかと感じています。
だから、あなたとも一緒に心を躍動させて、感動の気持ちを
分かち合いたいなとおもいます。〉

 日野原さんとは、一度講演会(生と死を考える会・全国大会in横浜2008)の末席でご一緒したことがあった。舞台の袖から登壇されると会場から拍手と小さなどよめきがおこったことが思い出される。
『生きていくあなたへ』を読んで、こころが揺れ動いた箇所があった。それはお医者さん志望の動機にふれた幼少期のエピソードだった。
7歳のとき、お母さんが危篤になり、お医者さん(安永謙逸先生)が看るためにやってきた。そのとき必死に祈った。けれど、祈ったのは「お母さんを助けてください」ではなかった。「いまおもうと不思議ですが、どうか神様、母を救おうとしている安永先生を助けてください」と祈った。すると奇跡は起きた。お母さんは命をとり留めた。そして少年は医師を目指したのだった。

2017年7月28日金曜日

イネーブラー  ―認知症のひとに同伴する


認知症に関する手引き書はそのほとんどが介護者のために書かれている。認知症(dementia)の人は「呆けている人」「わけが分からない人」で、自身の病を訴える能力がなく、こころを喪失した脱け殻状態の人とみなされている。だから、認知症のケアは高齢者介護の中心課題になっている(我が国の“2025年問題”は、認知症患者がざっと700万人、65歳以上の高齢者5人に1人といった数字で示されている)。

ところが、クリスティーン・ブライデンさんの『認知症とともに生きる私』(大月書店)を読むと、認知症に対する偏見と固定観念を粉砕する基盤を欠いていたかがわかる。本書の原題はNothing About Us,Without Us!「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」とある。私たちとはだれを、どんな人を指すのか…。認知症患者? 認知症の人? 認知症のある人? …つまり、「認知症の患者である前に、一人の人間です」という訴えが聞こえてくる。
クリスティーン・ブライデンさんは、かつてオーストラリアの政府関連の科学技術者だった。シングルマザーとして3人の娘を育てながら1996年(当時46歳)にアルツハイマー病と診断され(後に前頭側頭型認知症と修正)、「完全に呆けるまで5年、3年後には介護状態になって死ぬ」といったシナリオが示され、いまなお「認知症とともに生きている人」なのである。
クリスティーンさんは若年性認知症の姿を自らカミングアウトした。そして認知症になるとはどういうことか、私は誰だったのか? いま誰なのか? そして死ぬとき、誰になっていくのか-そんなアイデンティティの危機に直面しながら“認知症サバイバー”として、認知症患者の権利擁護活動家として日々を重ねている( 専門医は脳のMRI画像から、この20年の活動はしんじられないと首をかしげるという)。

「認知症とともに生きる」とは、「認知の自己」が失われている生活が続いている。その段階で人生は減速車線にうつることになる。けれど、「感情の自己」と「スピリチュアルな自己」があるかぎり人として生きることができるとクリスティーンはいう。「認知の自己」はもう求めない。でも、「生きる意味を探す支援がほしい」と。そして、発症後まもなくして同伴者となった夫ポールへの信頼を口にしている。
〈慣れ親しんだポールの存在がいつもそこにあって、わたしはその彼を通して安心感を得ています。そして彼は愛ある存在感をもって私を安心させてくれます。ポールは私のケアパートナーであり、イネーブラーです。
私ができるだけ長く自立していられるように、彼はケアを調節して、私の自律を助けています。認知症を生きるこの人生で、私は権利擁護活動とポールとの関係性を通して、自分のスピリチュアリティについて新たに考え、生きる意味を見つけてきたのです〉

イネーブラー(enabler)※とはなにか。自分でできるように助ける人のことであり、carer,とかCaregiverにある「してあげる人」「保護する人」という意味を取りのぞいた、あくまでも対等な関係を重視した表現として示されている。それをイネブリング(enabling)と呼んでいる。
たとえば、①「(無条件に)ケアを与えること」は×であり、②私がやれることを代わりにやってくれることも×である。
つまり③単なるケア(介護)の対象者(対象物)とみなすのはだめ、×である。ここからがイネーブラーとなる。④できなくなってしまったことではなく、まだできることに着目してはたらきかけることであり、⑤日々、小さな達成感を得られるよう支援すること。
―「認知症とともに生きている人の深いところでつながり、この旅路を歩むことをイネーブル(enable)してください」。それがクリスティーンのメッセージなのだ。

あらためて、イネーブラーは、彼女がポールとの関係から、独自に引き出した思想概念だといえるだろう。依存ではなく自立(自律)した、二人のすこやかな関係(well-being)そのものを指している。(※ちなみに、この用語は通常、心理カウンセリングの用語として使われ、何らかの依存症にある人に対して、心ならずもその依存状態を支えてしまう人のこと。イネイブラー、イネーブラーとも。ここでは本書訳にしたがってイネーブラーとした)

認知症を生きる道を手探る人たちの発信は、わが国でも目につくようになっている(ルポ「希望の人びと」生井久美子 朝日新聞出版)。ここでは、認知症の人が同じ認知症の道を歩む仲間への呼びかけを紹介しておこう。(『認知症になっても人生は終わらない』harunosora
〈病気は、あなたのなかのほんの一部分です。苦手になることは無数の脳の働きなかのほんの一部分です。あなたは今もこれからもずっとあなたです。病気の症状は恥でしょうか? 病状とあなたの価値は無関係です。忘れたっていいんです。それは病気が起こすもので、あなたの人格とは何の関係もありません。〉
〈笑顔で生きる道はたくさんあります。そのために気持ちが落ち着いたら、先ず一番親しい人に病気のことを話してみましょう。きっとそのままのあなたを受け入れてくれます。〉30歳代後半に幻視。若年性レビー小体型認知症と診断された樋口直美さん 54歳)

〈認知症当事者は特別な人ではないのです。丹野智文という一人の人なのです。認知症の人というよりは認知症とともに生きる人だとおもってほしいです。〉
〈介護が必要なのは本当に重度になってからだとおもいます。いま、できることを奪わないでください。そして時間がかかるかもしれませんが待ってあげてください。一回できなくても次、できるかもと信じてあげてください〉(若年性アルツハイマー型認知症と診断され、「2年後には寝たきりになる」と言われた丹野智文さん 43歳)


わが国でも批准された障害者権利条約(2013年)には、Nothing about us without us.(私たち抜きに私たちのことを決めないで)という原則が謳われている。長い権利闘争の歴史の末に手にした権利だ。認知症の人の生き方にも、この原則が実現されなければならない。そのためにはだれもが介護者からパートナーへ、さらにイネーブラーへの踏みだしの一歩が問われることになる。「ユマニチュード」(ブログ・ラベル参照)はその向こうに見えてくるはずである。

2017年6月23日金曜日

ときあかり ―死出に添う



佐賀県唐津市の吉井栄子さん(「お世話宅配便」代表)を久しぶりに訪ねたとき「ときあかり」という言葉を教わった。当初は地元の銘酒の名まえかとおもったほどだった。いそいで辞書を引くと、明け方、東方がかすかに明るくなること(大辞林)とある。なるほど、とは思ったが、ここでは逆。むしろ、西方に沈みゆく陽の翳りのなかで彩るいのち―つまり、亡くなる直前に生気を取りもどしてみせる人の姿をさしているのだった。2,3のエピソードを引いてみよう。

―長いこと寝たきりだったお祖父ちゃんが急に散歩に行って、買い物に行って、部屋の片付けして、次の日また寝たきりに戻って、その次の日に亡くなった。
「今思えばとても不思議です。仏壇の引き出しにはお祖父ちゃんが入れたと思われる通帳と印鑑が入っていたと母が言っていました。お祖父ちゃんは自分が亡くなるってことわかっていたのかも知れないです」

―うちのばあちゃん、長く入院してやっと家にもどったら「ご飯が食べたい」といい、食欲が出てモリモリ食べておかわりまでして、その翌日に亡くなった。でも、家族はみんな「ばあちゃん、死ぬ前にいっぱい食べられて良かったねえ」と喜んだんですよ。

―認知症だった祖父が突然「紙と鉛筆貸して」って言って貸してあげた。何か書こうとしているんだけど書けないらしかった。「夜ももう遅いから書き物は明日にしよう? 明日になったら書けるよ」といって部屋の電気を消して出ていったら、翌朝紙と鉛筆もったまま亡くなっていた。電気を消さなければ。悪いことしたと思う。遺書のつもりで何か書こうとしていたんだろうな…。

「ときあかり」はロウソクの灯りに見立てることもできる。ロウソクは燃え尽きる直前に太く瞬き、その後に火は消える…。そんな〈いのち〉の名残劇を指している。
関連してもうひとつ、死の床にある人の「お迎え」現象がある。「親父が迎えにきてくれた。あの世で親父に会えると思うとたのしみだ」とか、「仏様がきているけど まだはやい。追い払ってくれ」「お花畑がみえてキレイだった」などと口にした人がそれぞれ追っかけるように亡くなっていく。

―はじめて幻覚のような症状が現れたのは、死期の一ヶ月前。家族が「だれ」と聞くと「男の人、とか女の人」とかで具体的な名前はいわず、一瞬にこにこしているようだった。家族が「おじちゃん(夫)がきたの」と聞くといなくなったとかで、穏やかな幻覚が多少あったようだが、それで苦しめられる様子はなかった。

―戦争体験者Sさん。「兄貴が今来てるんだけど、しゃべってほしいのに何にもしゃべってくれないんだよ、先生」と言われびっくりした。幻覚かどうか調べるために指を立て、「これ何本かわかりますか」とか、「私が誰だかわかりますか」と確かめたが、Sさんの認知は正常で、周囲のこともしっかり見えている。お兄さんは呉で戦艦陸奥が爆沈したときに死んだ乗組員で、私が「お兄さんはどこにいるの?」と尋ねると「そこにいるんだよ、先生、見えない?」と指差すが、私には見えない。Sさんは、いろいろ語りかけたが「やっぱり何も言ってくれない」と残念そうだった。(『現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り 在宅ホスピス遺族アンケート』 ※東北大学文化社会学 岡部健他 遺族366人、「お迎え」体験は4割超)

これら「ときあかり」や「お迎え」はいずれも在宅死であり、病院や福祉施設ではほとんど見られない現象である。医療制度に支えられている現在、病院死が当たり前になっており、国民の8割が病院で亡くなっている。そこで登場してきたのが「尊厳死」とか「平穏死」への期待となったのである。これらの死に方は自然死(在宅死)からもっとも遠い死に方になっていることに気づく。それだけに「ときあかり」や「お迎え」現象は、医療施設では幻覚をともなった「せん妄」として治療の対象になってしまうのだ。
「臨床宗教師」を提唱した在宅医の岡部健さん(自ら末期がんで、2012年死去)は、「お迎え(ときあかりを含む)」がせん妄によるものかを論じるより「お迎え」(ときあかりも含む)を体験した患者がほぼ例外なく穏やかな最期を迎えることに着目すべきだとして、在宅医として体験した事例を残している。

〈肺がんによる低肺機能の70歳代後半の女性は3階に寝ていたが、ある日、お嫁さんが様子を見に階段を上がって行くと、いきなり「せっかくそこに母ちゃんが迎えに来てんのに、おまえが来たから消えてしまったじゃないか。なんてことしてくれるんだ」と怒鳴られた。それから一カ月後に、娘さんから「母が『今日死ぬから親戚を集めろ』と、おかしなことを言ってる」と電話が入った。往診にいくと、笑顔で「先生、ありがとうございました、今日で逝きます」と言う。けれど酸素濃度や血圧を測っても、どこにも悪いところがない。首をかしげながらも、私は娘さんに「本人がこう言うときは当たることが多いから、親戚を呼んであげたら」と伝えた。親戚がやってくると、おばあさんは枕元に集めて説教をはじめた。最期こそ言葉は不明瞭になりながらも。その晩に亡くなった。〉

岡部医師は「お迎え現象は、精神と肉体がほどよくバランスをとりながら衰えていったときにおこる」と指摘している。つまり、死の準備過程で起こる自然現象であり、これは家族に委ねられるべき場面だとしている。
ここで、わたしが遭遇した場面に触れよう。17年ほど前、90歳の義母が亡くなる前日、わたしが外出する際に交わした義母との数分の会話である。

ベッドの脇に立ったとき、唐突に「ヨネザワ君。わたし、もうすぐいなくなるから。ありがとう」という(義父母はわたしをさいごまでヨネザワくんと呼んだ)。
「もうすぐいなくなる…。そんな気がするんですか」
「来週はもういないとおもう。お世話になったわ」
わたしは(もうすぐ死ぬ? そんなこと言わないでがんばって)といういつもの言葉を飲み込んでいた。義母の目は、そういう返事を期待していなかったからだ。
「ぼくもいっしょに暮らせて、よかったですよ」と手を差し出した。
「長いこと、ありがとう。それから、××子は来週にはあなたに返すから」 
(『自然死への道』の「明け渡しのレッスン」から)

ここで××子とは妻の名前である。おもしろい言い方だなあとおもって「まだ、いいですよ」とことばを返したほどだったが、差し出した私の手を握りかえしながら“母”の顔でうなずいた。義母はその日の夕方、病院で診てもらうからと入院をせがみ、翌朝病院で一人看取られることなく亡くなった。これこそ、わたしが体験した「ときあかり」だったのだ。

2017年4月13日木曜日

〈かけはし〉という夢


豊橋市(愛知県)で介護福祉タクシー開業20年になる株式会社かけはしの山田和男(69歳)さんのホスピス運動を紹介してみよう。
福祉タクシーといえば、病気の人、障がいのある人、介護が必要な高齢者を送り迎えするのが仕事。東三河(豊橋市、田原市など8市町村、約75万人)なら、いつでもどこへも24時間の対応。現在スタッフは3人、4台の車両。車は地域で唯一、医師や看護師が同乗して使用できる人工呼吸器や痰吸引器等を備えた大型車で、ストレッチャー(車輪付きベッド)の重篤患者を搬送する機会が増えている。去年1年間の利用者数は千人を超える。病院から自宅へ、A病院からB病院へ、自宅から施設へ。施設から病院へ…。「それだけではありませんよ」と山田さんは、孫の結婚式や、コンサート会場への送迎なども話題にし、九州まで「さいごの旅に」を伴走した家族の愉しいエピソードも。そして、昨年9月、山田さんは「東三河をホスピスの街にしたい」という願いから「かけはしの会」を立ちあげた。

山田さんをホスピスへとかりたてたおもいは「かけはし」にあった。
50歳になったら、社会に恩返しをしたい」とNPO活動として始めた搬送サービスだったが、それには妻かつ子さんが命名した「かけはし」への願いとともにあった。
2009年、最愛の妻であり仕事の右腕もあったかつ子さんが5年の闘病のすえ乳がんで亡くった。その時に豊橋医療センター(国立病院機構)で佐藤健医師からていねいな緩和ケアを受け、ホスピス運動に出会い、様々な勉強会にも参加するようになった。そして、搬送では末期がんや老揺期の重篤な病で死を目前にし苦しみを抱えた家族の姿が目につくようになっていた。

病院へ向かう車内では「あの病院へはいきたくない」といった呟きがもれたりする。おもわず「先生も看護師さんも、よろこんで迎えていただけますよ」と口にしたりすることがある。退院の日の病室では不安な表情だった患者が自宅に近づくにしたがって穏やかになり「ありがとう」と声をかけられることもある。こんなとき、「死を待つひとの家」を開設したマザー・テレサの「人生の99%が不幸だったとしても、さいごの1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる」という言葉に出合った。そして「残りの人生、この仕事を通して、いのちのかけはしができないだろうか」。
そこで刺激を受けたのが『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』という、二人の在宅医山崎章郎、二ノ坂保喜と米沢慧が立ちあげた「3人の会」(2012年7月結成)の「市民ホスピスへの道」という運動だった。

東三河でうまれ育ち暮らし、亡くなるときに良かったなとおもう街にしたい。
山田さんがそんな思いを駆り立てることになったのは、早い時期に『ホスピス』を翻訳(1981年)紹介した岡村昭彦が、雑誌記者の「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは医療施設ではありません。いのちの運動なのだということをまず認識してほしい」と釘をさした上で、次の6項目を挙げていたことだった。
1 地域社会との結びつきがないホスピスはホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう。
2 コミュニティのなかで、生命の質を高める生活をしながら「死にゆく人」を中心にケアしようというのがホスピス運動。
3 ホスピス運動は、携わる人のすべてが平等・対等でないとうまくいかない。
4 ホスピス運動は、自分の住んでいる地域の課題から手をつけるべきだ。
5 ホスピス運動は、地域社会のなかで1人1人が参加できるボランティア活動。まず自分ができること(話し相手になること、手を握ってあげることなど)を登録することからはじまる。
6 ホスピス活動は、死んでいく人の世話を通して死にゆく人から学ぶこと。

これらに照らしてあらためてホスピスが「根づいた」とだれが言えるだろうか。
近年は「地域包括ケアシステム」といった行政からの要請に急かされている。そうなら、この6項目を元手に、地域でその人らしくいのちを全うできる街づくりを市民の課題にして行動するべきではないのか。かくして山田和男さんは「かけはしの会」を設立した。スローガンは「東三河をホスピスの街へ」。そしてスタートしたのが、いのちを考える巡回セミナー(隔月)。すでに豊橋市、田原市、新城市などで始まっている。その任に就いたのがわたし、米沢慧。(※別途参照)

これまで「いのちを受けとめる郷へ」「いのちを伴走するケアのかたち」「病院化社会をいきること」「病院・病棟はだれのためのものか」などのテーマで2時間。さいわい毎回20~40人と盛況。がん末期の人などが空き家を利用して暮らす「ホームホスピス」を目指している人もいるが、社会福祉士、介護福祉士に訪問ボランティアナース、ソーシャルワーカー、薬剤師に鍼灸師等の肩書きにこだわることなく、「かけはし」を思い描いているところだ。

2017年2月16日木曜日

ユマニチュード Ⅱ 〈世話するヒト〉宣言


認知症のケア・メソッドとして知られる仏国で生まれたHumanitude ユマニチュード(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ)は、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として示されている。
さらに補足すれば、Humanitude ユマニチュードはフランス領マルティニーク島出身の詩人であり政治家であったエメ・フェルナン・ダヴィッド・セザールが1940年代に提唱した植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ”を取りもどそうとした運動であるNegritude ネグリチュードにその起源をもつという。
そこで、もうひとつ。わたしはユマニチュード〈世話するヒト〉と呼んでみたい気がする。その起源に思いをはせたのは実は次にあげる小さな新聞記事だった。

〈仏南部の洞窟で発見された20万年前の人類の祖先、初期のネアンデルタール人が一緒に住む高齢者らに食糧を分け与えていたのではないかとする説がアメリカの科学アカデミー紀要に発表された。
遺跡でみつかった人骨の分析から、この人物は性別は不明だが4050歳代。生前に歯をすべて失っていた。動物では親が子の面倒をみる以外にお互いに手助けすることはほとんどない。また、人間以外の霊長類で歯を失うことは餓死を意味しており、一緒に住む高齢者の世話をするのは、人間を他の動物と区別する特徴とされている。「周囲の者が世話をしていたとしか考えられない」とみている。これまでの研究では、人間がお互いの世話をしあうのは現世人類の祖先である約五万年前のホモ・サピエンスの時代とされていたが、これを大きく覆すものだという。〉(「読売新聞」2001年9月11日)

20年近く前、この記事から〈世話するヒト〉を発見したとおもう。読んでおもわず「人間ってすごいなあ」と呟いたことを覚えている。介護保険法が施行された間もなくのことで、義父母二人の老揺期と終末期の介護(義母は要介護5)が重なっていたころだった。
20万年前の4050歳代といえば、今日では80歳代の高齢者だろう。遠く、旧人(ネアンデルタール人)にまで遡っても、介護をしていたこと。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)の前に、まず〈世話するヒト〉であったということになる。
私たちは大脳皮質(思考・言語などの高次機能)の知能に人間の尊厳性をおいている。けれど、実はもう一つ大脳辺縁系(感情等を支配する情動脳)に支えられてこその尊厳ではないか…。理性・観念は宇宙の無限遠点をめざすが、情動はひたすらに地上の愛を全うするヒトであり続ける…。
私たちは、抱いてもらったように、食べさせてもらったように、眠らせてもらったように世話をし、そして看取り・葬る。
グリム童話「じゅみょう」にみる人間70歳寿命説もまた、老いて歯がなくなり、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなっても、なお人は支えて生きていくこと。他人を世話するという力を、他の哺乳動物(イヌ・ロバ・サル)と一線を画す〈世話するヒト〉の存在として肯定したかったのだろう…。この記事を支えにしてわたしは『「還りのいのち」を支える』(2002年・主婦の友社)、『ホスピスという力』(2002年・日本医療企画)を著したのだった。

人類学者川田順造は、ヒトの祖先が、直立二足歩行によって得たものは大きな脳をもつことや、声帯が下がり構音器官が発達して、二重分節の言語を話せるようになっただけではない。二足歩行は、ある嵩と重さをもった「荷物を運ぶ」能力をもった〈運ぶヒト〉という視点がいると次のようにいう。
〈ホモ・サピエンス Homo sapiens 「知恵のあるヒト」という自己陶酔気味の正式の学名のほかに、ホモ・ルーデンス Homo ludens 「遊ぶヒト」(ヨハン・ホイジンガ)、ホモ・ヒエラルキクス Homo hierararhius 「階層化好きのヒト」(ルイ・ヂュモン)などの綽名をつけた先人にならって、わたしはホモ・ポルターンス Homo portans「運ぶヒト」と呼びたい〉(『〈運ぶヒト〉の人類学』)
その伝からいえば、care(世話、配慮、関心、心配など)、世話をする(care of)、配慮する、気にかける(are about)。このCareの語源はラテン語のcuraに由来しているという。気遣い、苦労、思いやり、献身につながる。あらためて、ここで〈世話するヒト〉宣言をしておきたいとおもう。


2017年1月10日火曜日

ユマニチュード ―〈世話するヒト〉



フランスに端を発したケア・メソッド「ユマニチュード」は、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの二人が35年かけて作り上げた認知症の人に対するトータルケアとして知られている。一般には①見る、②話す、③触れる、そして④立つ。この4つを柱とする技法とされ、これまでテレビ映像を始め専門誌の特集等で広く紹介され、病院や介護施設にも根をおろしてきている。
「ユマニチュード」研修に参加した知人に聞くと「看護技術というより、人として向き合う力をもらいました」といい、「だれでも(あなたも)〈世話する人〉になれるとおもいます」という答えがかえってきた。

Humanitude ユマニチュード」とは、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた造語で“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として提示されている。「ユマニチュード」の同伴者である本田美和子医師は、「さまざまな機能が低下しして他の人に依存しなければならない状況になっても最期の日まで尊厳をもって暮らし続けることができるように支える態度」だという。
原著『Humanitude ユマニチュード』(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ本田美和子 辻谷真一郎訳 トライアスト東京)は「人間とは何か―」、この問いかけからはじまっている。
「1799年の終わりごろ、アヴェロン村近くの森のはずれでのことだった。猟師の一団が奇妙な動きをして自分たちを避けようとする生きものの姿を認めた。…四つ足で歩き、どんぐりや木の根や草を口にし、顔に表情はなく、ことばを話さず、近づくと向かってくる…。」
18世紀末のフランス革命の後、ヴィクトルと呼ばれることになる8、9歳の野生児発見とその捕獲扱いに「ユマニチュード」の原点を置いている。
ヴィクトルは直立歩行と言語の発達がまったくみられなかったがゆえに檻に入れられ、観察が続けられ四〇歳頃まで生きたが、「理性も社会性もなく獣性以外いかなる属性も見いだせない」として、人間に値しない生物種(『哺乳類』ヒト科の生きもの)という扱いに終始した。「精神障害や認知記憶障害のある者もまた、理性や自制心、自律心の高さを基盤とする人間の尊厳という名の下に人間の名に値しないと判断され、時には生きるに値しないと判断されてきた」と記して立ち位置を鮮明にしている。
イヴ・ジネスト氏はいう。「病状がどうあろうとも、最期まで人間として感じていられるように、私たちは、ユマニチュードを用いてその絆を再び確立します。これは、相手を人間として認識する哲学なのです」と。
ちなみに「アヴェロンの野生児の感覚器官の機能発達」(『アヴェロンの野生児』J.M.G.イタール 中野善達・松田清訳 福村出版)によれば「感覚器官のうちで文明度が顕著にあがったのは味覚の感覚だった」とある。ジネスト氏も認知記憶障害の人がさいごまで強く残る感受性は味覚、スパイスが大事だと語っていた。

では、認知記憶障害のある高齢者の人を前にして、先の四つの柱によるユマニチュードに基づいて、〈世話するヒト〉になってみよう。
   1 見つめる (愛の表現)
  ・見ないことは「あなたは存在しない」と告げること
  ・水平に見つめる →平等な関係を伝える
 ・正面から見る →正直である
  ・近くから見つめる →やさしさ、親密さ
 ・長く見つめる →あたたかさ 
2 話しかける (トーンをやさしく)
  ・沈黙のケア現場に言葉をあふれさせる(オートフィートバック)
  ・「手をあげてください(3秒待つ)いま、背中を拭いていますよ
…あたたかいですね …きれいになってきもちいいですね」
3 触れる (優しさを相手に伝える)
   ・体に触れることは脳にふれること
   ・「ひろく、やわらかく、ゆっくり、なでるように、包み込むように…」
   ・触れることは自由をもたらす    
4 立つ (知性の根幹、人間であること)
   ・1日に合計20分間立つことができれば、寝たきりになることはない。
・人は死を迎える日まで、立つことができる。
   ・身体整容や清拭を1日30分立った状態ですれば寝たきりにならない

あらためて、「介護するということは目を見つめて話しかけ、眼差しとことばによって、あらゆるものを失った人たちの揺るぎない主権を認識することである」。
触れるということは、相手を生かすことができるものでもあれば、ほとんど悪意のないまま殺すことができるものでもあること。けれど介護をするために相手に触れる。この避けられない馴れ馴れしい行為を、しこりを残すことなく受け入れてもらえるようになるには、並はずれた技量と繊細な配慮がなければならないだろう。


2016年11月24日木曜日

日本のホスピスが忘れてきたもの


―三人の会(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)鼎談企画によせて
(日本ホスピス・在宅研究会全国大会in久留米 2017.2.5.


●日本のホスピス40年をめぐって
西欧に誕生したホスピスの近代史を押さえようとすれば、19世紀初頭アイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動「死にゆく人々のためのホスピス」に端を発しておよそ200年。シシリー・ソンダースによる近代ホスピスの誕生(セント・クリストファー・ホスピス 1967)からは50年。では、わが国のホスピスはどのような経緯で今日にいたっているのか。概略次の3期に分けてみることができよう。

第1期。 セント・クリストファー・ホスピス(1967設立)が、わが国に紹介されたのは10年後の1997年。新聞見出しは「天国への安息所・英国の『死を看とる』専門病院」(朝日新聞7月13日夕刊)。この年、日本死の臨床研究会が発足した。
わが国のホスピス誕生の契機は1980年にロンドンで開催された第1回世界ホスピス会議(会期5日間・16カ国68人参加)に精神科医・柏木哲夫氏、チャプレン・斎藤武氏がオブザーバーとし参加。そして翌年の1981年に聖隷三方原ホスピス、1984年の淀川キリスト教病院ホスピスが誕生。ホスピスは揺籃期に入った。

第2期。 1990年WHOの指針にしたがって、ホスピスは緩和医療、緩和ケア病棟(がんとエイズに限定)として医療保険制度に繰り込まれ、終末期医療(ターミナルケア)として認知されることになった。この時期、外科医からホスピス医に転進したのが山崎章郎医師。「病院は(がんで)亡くなっていく人の力にはなれない」と著した『病院で死ぬということ』(1990)はベストセラーとなり、映画化されホスピスは市民権を手にした。ちなみに日本ホスピス・在宅ケア研究会の発足は1992年。

そして第3期は21世紀。 長寿社会の到来と重ねてみることができる。介護保険法の施行(2000年)に始まり、がん医療の均てん化を重視したがん対策基本法(2007年)をベースに、在宅療養支援診療の強化、地域包括ケアシステムといった態勢が整備されるなかで各地にホスピスの裾野はひろがってきたようにみえる。

けれど、「日本にホスピスは根づいた」といえるだろうか。名著『ホスピスへの遠い道』(春秋社)の著者岡村昭彦(19291986)は、発表当時(1984)、「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは施設ではなくて運動なのだということをまず認識してもらいたい」と釘をさしていた。そして、「地域社会との結びつきがないホスピス運動はホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう」こと、「ホスピスはコミュニティのなかで、一人一人が参加できるボランティア活動」である、といった言葉を遺している。大きな変動期にある現在、ホスピスの原点から遠ざかっているのではないか、検証してみる時期にきているのは間違いない。

●近代ホスピス運動の原点に立って考えてみる
そこで討議テーマは「日本のホスピスが忘れてきたもの」となった。
何を忘れてきたのか。この課題に向き合うには恰好のテキストがあった。前述の第1回世界ホスピス会議(1980)の課題に立ち返ってみることである。
大会記録は1981年に“Hospice : the living idea”として出版され、わが国では岡村昭彦監訳『ホスピスケアハンドブック――この運動の反省と未来』として刊行(家の光協会 1984)され、ソンダース女史没後には追悼記念出版として『ホスピス―その理念と運動』(雲母書房2006)と原題に戻して再刊された。5日間にわたって討議された全8章のテーマを掲げてみる。
① ホスピスの思想
② ひとつの生き方としてのホスピス
③ 死期を迎えるための哲学
④ 今日の痛みの概念
⑤ 死にゆく患者の症状の緩和
⑥ 運動神経系疾患に対するホスピスケア
⑦ 世界に広がるホスピス運動
⑧ 成果、失敗、そして未来:ホスピスを分析すると
これらはシシリー・ソンダースの思想とセント・クリストファー・ホスピスの設立理念にそったものだが、今日も何一つ旧いテーマはない。ひとつの生き方としてのホスピス、死期を迎えるための哲学。さらに運動神経系疾患(ALS)に対するホスピスケア100例の紹介などは、がん患者にのみ目をむけてきた日本のホスピス運動がいかに視野狭窄で、「いのち」という視点が欠けていたことがわかる。
あらためて、「日本のホスピスが忘れてきたものは何か」。やはり、「(ホスピスの)成果、失敗、そして未来」という視野に立つ試みということになる。思想としてのホスピス、運動としてのホスピス、臨床としてのホスピス等、重いテーマがまっている。
今回は、日本のホスピス運動の渦中で牽引してきた山崎章郎氏と、在宅ホスピスに取り組みながら、アジアのホスピスにも関心を示す二ノ坂保喜氏と、「(日本が)忘れてきたもの」だけではなく「新たに身につけたもの」を探り、語り合えればとおもう。

わたしの視点を添えれば、いま私たちの生活地平には「メメント・モリ(死を想え)」という重い視界がひろがっている。阪神淡路大震災(1995)から東日本大震災(2011)に福島原発のメルトダウン――わたしたちは、未曾有の死の体験を共有している。この間にはいのちに寄り添うNPO法人の立ち上げをはじめ、市民ホスピス運動の試みがある。そこに触れたいとおもう。