2017年4月13日木曜日

〈かけはし〉という夢


豊橋市(愛知県)で介護福祉タクシー開業20年になる株式会社かけはしの山田和男(69歳)さんのホスピス運動を紹介してみよう。
福祉タクシーといえば、病気の人、障がいのある人、介護が必要な高齢者を送り迎えするのが仕事。東三河(豊橋市、田原市など8市町村、約75万人)なら、いつでもどこへも24時間の対応。現在スタッフは3人、4台の車両。車は地域で唯一、医師や看護師が同乗して使用できる人工呼吸器や痰吸引器等を備えた大型車で、ストレッチャー(車輪付きベッド)の重篤患者を搬送する機会が増えている。去年1年間の利用者数は千人を超える。病院から自宅へ、A病院からB病院へ、自宅から施設へ。施設から病院へ…。「それだけではありませんよ」と山田さんは、孫の結婚式や、コンサート会場への送迎なども話題にし、九州まで「さいごの旅に」を伴走した家族の愉しいエピソードも。そして、昨年9月、山田さんは「東三河をホスピスの街にしたい」という願いから「かけはしの会」を立ちあげた。

山田さんをホスピスへとかりたてたおもいは「かけはし」にあった。
50歳になったら、社会に恩返しをしたい」とNPO活動として始めた搬送サービスだったが、それには妻かつ子さんが命名した「かけはし」への願いとともにあった。
2009年、最愛の妻であり仕事の右腕もあったかつ子さんが5年の闘病のすえ乳がんで亡くった。その時に豊橋医療センター(国立病院機構)で佐藤健医師からていねいな緩和ケアを受け、ホスピス運動に出会い、様々な勉強会にも参加するようになった。そして、搬送では末期がんや老揺期の重篤な病で死を目前にし苦しみを抱えた家族の姿が目につくようになっていた。

病院へ向かう車内では「あの病院へはいきたくない」といった呟きがもれたりする。おもわず「先生も看護師さんも、よろこんで迎えていただけますよ」と口にしたりすることがある。退院の日の病室では不安な表情だった患者が自宅に近づくにしたがって穏やかになり「ありがとう」と声をかけられることもある。こんなとき、「死を待つひとの家」を開設したマザー・テレサの「人生の99%が不幸だったとしても、さいごの1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる」という言葉に出合った。そして「残りの人生、この仕事を通して、いのちのかけはしができないだろうか」。
そこで刺激を受けたのが『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』という、二人の在宅医山崎章郎、二ノ坂保喜と米沢慧が立ちあげた「3人の会」(2012年7月結成)の「市民ホスピスへの道」という運動だった。

東三河でうまれ育ち暮らし、亡くなるときに良かったなとおもう街にしたい。
山田さんがそんな思いを駆り立てることになったのは、早い時期に『ホスピス』を翻訳(1981年)紹介した岡村昭彦が、雑誌記者の「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは医療施設ではありません。いのちの運動なのだということをまず認識してほしい」と釘をさした上で、次の6項目を挙げていたことだった。
1 地域社会との結びつきがないホスピスはホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう。
2 コミュニティのなかで、生命の質を高める生活をしながら「死にゆく人」を中心にケアしようというのがホスピス運動。
3 ホスピス運動は、携わる人のすべてが平等・対等でないとうまくいかない。
4 ホスピス運動は、自分の住んでいる地域の課題から手をつけるべきだ。
5 ホスピス運動は、地域社会のなかで1人1人が参加できるボランティア活動。まず自分ができること(話し相手になること、手を握ってあげることなど)を登録することからはじまる。
6 ホスピス活動は、死んでいく人の世話を通して死にゆく人から学ぶこと。

これらに照らしてあらためてホスピスが「根づいた」とだれが言えるだろうか。
近年は「地域包括ケアシステム」といった行政からの要請に急かされている。そうなら、この6項目を元手に、地域でその人らしくいのちを全うできる街づくりを市民の課題にして行動するべきではないのか。かくして山田和男さんは「かけはしの会」を設立した。スローガンは「東三河をホスピスの街へ」。そしてスタートしたのが、いのちを考える巡回セミナー(隔月)。すでに豊橋市、田原市、新城市などで始まっている。その任に就いたのがわたし、米沢慧。(※別途参照)

これまで「いのちを受けとめる郷へ」「いのちを伴走するケアのかたち」「病院化社会をいきること」「病院・病棟はだれのためのものか」などのテーマで2時間。さいわい毎回20~40人と盛況。がん末期の人などが空き家を利用して暮らす「ホームホスピス」を目指している人もいるが、社会福祉士、介護福祉士に訪問ボランティアナース、ソーシャルワーカー、薬剤師に鍼灸師等の肩書きにこだわることなく、「かけはし」を思い描いているところだ。

2017年2月16日木曜日

ユマニチュード Ⅱ 〈世話するヒト〉宣言


認知症のケア・メソッドとして知られる仏国で生まれたHumanitude ユマニチュード(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ)は、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として示されている。
さらに補足すれば、Humanitude ユマニチュードはフランス領マルティニーク島出身の詩人であり政治家であったエメ・フェルナン・ダヴィッド・セザールが1940年代に提唱した植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ”を取りもどそうとした運動であるNegritude ネグリチュードにその起源をもつという。
そこで、もうひとつ。わたしはユマニチュード〈世話するヒト〉と呼んでみたい気がする。その起源に思いをはせたのは実は次にあげる小さな新聞記事だった。

〈仏南部の洞窟で発見された20万年前の人類の祖先、初期のネアンデルタール人が一緒に住む高齢者らに食糧を分け与えていたのではないかとする説がアメリカの科学アカデミー紀要に発表された。
遺跡でみつかった人骨の分析から、この人物は性別は不明だが4050歳代。生前に歯をすべて失っていた。動物では親が子の面倒をみる以外にお互いに手助けすることはほとんどない。また、人間以外の霊長類で歯を失うことは餓死を意味しており、一緒に住む高齢者の世話をするのは、人間を他の動物と区別する特徴とされている。「周囲の者が世話をしていたとしか考えられない」とみている。これまでの研究では、人間がお互いの世話をしあうのは現世人類の祖先である約五万年前のホモ・サピエンスの時代とされていたが、これを大きく覆すものだという。〉(「読売新聞」2001年9月11日)

20年近く前、この記事から〈世話するヒト〉を発見したとおもう。読んでおもわず「人間ってすごいなあ」と呟いたことを覚えている。介護保険法が施行された間もなくのことで、義父母二人の老揺期と終末期の介護(義母は要介護5)が重なっていたころだった。
20万年前の4050歳代といえば、今日では80歳代の高齢者だろう。遠く、旧人(ネアンデルタール人)にまで遡っても、介護をしていたこと。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)の前に、まず〈世話するヒト〉であったということになる。
私たちは大脳皮質(思考・言語などの高次機能)の知能に人間の尊厳性をおいている。けれど、実はもう一つ大脳辺縁系(感情等を支配する情動脳)に支えられてこその尊厳ではないか…。理性・観念は宇宙の無限遠点をめざすが、情動はひたすらに地上の愛を全うするヒトであり続ける…。
私たちは、抱いてもらったように、食べさせてもらったように、眠らせてもらったように世話をし、そして看取り・葬る。
グリム童話「じゅみょう」にみる人間70歳寿命説もまた、老いて歯がなくなり、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなっても、なお人は支えて生きていくこと。他人を世話するという力を、他の哺乳動物(イヌ・ロバ・サル)と一線を画す〈世話するヒト〉の存在として肯定したかったのだろう…。この記事を支えにしてわたしは『「還りのいのち」を支える』(2002年・主婦の友社)、『ホスピスという力』(2002年・日本医療企画)を著したのだった。

人類学者川田順造は、ヒトの祖先が、直立二足歩行によって得たものは大きな脳をもつことや、声帯が下がり構音器官が発達して、二重分節の言語を話せるようになっただけではない。二足歩行は、ある嵩と重さをもった「荷物を運ぶ」能力をもった〈運ぶヒト〉という視点がいると次のようにいう。
〈ホモ・サピエンス Homo sapiens 「知恵のあるヒト」という自己陶酔気味の正式の学名のほかに、ホモ・ルーデンス Homo ludens 「遊ぶヒト」(ヨハン・ホイジンガ)、ホモ・ヒエラルキクス Homo hierararhius 「階層化好きのヒト」(ルイ・ヂュモン)などの綽名をつけた先人にならって、わたしはホモ・ポルターンス Homo portans「運ぶヒト」と呼びたい〉(『〈運ぶヒト〉の人類学』)
その伝からいえば、care(世話、配慮、関心、心配など)、世話をする(care of)、配慮する、気にかける(are about)。このCareの語源はラテン語のcuraに由来しているという。気遣い、苦労、思いやり、献身につながる。あらためて、ここで〈世話するヒト〉宣言をしておきたいとおもう。


2017年1月10日火曜日

ユマニチュード ―〈世話するヒト〉



フランスに端を発したケア・メソッド「ユマニチュード」は、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの二人が35年かけて作り上げた認知症の人に対するトータルケアとして知られている。一般には①見る、②話す、③触れる、そして④立つ。この4つを柱とする技法とされ、これまでテレビ映像を始め専門誌の特集等で広く紹介され、病院や介護施設にも根をおろしてきている。
「ユマニチュード」研修に参加した知人に聞くと「看護技術というより、人として向き合う力をもらいました」といい、「だれでも(あなたも)〈世話する人〉になれるとおもいます」という答えがかえってきた。

Humanitude ユマニチュード」とは、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた造語で“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として提示されている。「ユマニチュード」の同伴者である本田美和子医師は、「さまざまな機能が低下しして他の人に依存しなければならない状況になっても最期の日まで尊厳をもって暮らし続けることができるように支える態度」だという。
原著『Humanitude ユマニチュード』(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ本田美和子 辻谷真一郎訳 トライアスト東京)は「人間とは何か―」、この問いかけからはじまっている。
「1799年の終わりごろ、アヴェロン村近くの森のはずれでのことだった。猟師の一団が奇妙な動きをして自分たちを避けようとする生きものの姿を認めた。…四つ足で歩き、どんぐりや木の根や草を口にし、顔に表情はなく、ことばを話さず、近づくと向かってくる…。」
18世紀末のフランス革命の後、ヴィクトルと呼ばれることになる8、9歳の野生児発見とその捕獲扱いに「ユマニチュード」の原点を置いている。
ヴィクトルは直立歩行と言語の発達がまったくみられなかったがゆえに檻に入れられ、観察が続けられ四〇歳頃まで生きたが、「理性も社会性もなく獣性以外いかなる属性も見いだせない」として、人間に値しない生物種(『哺乳類』ヒト科の生きもの)という扱いに終始した。「精神障害や認知記憶障害のある者もまた、理性や自制心、自律心の高さを基盤とする人間の尊厳という名の下に人間の名に値しないと判断され、時には生きるに値しないと判断されてきた」と記して立ち位置を鮮明にしている。
イヴ・ジネスト氏はいう。「病状がどうあろうとも、最期まで人間として感じていられるように、私たちは、ユマニチュードを用いてその絆を再び確立します。これは、相手を人間として認識する哲学なのです」と。
ちなみに「アヴェロンの野生児の感覚器官の機能発達」(『アヴェロンの野生児』J.M.G.イタール 中野善達・松田清訳 福村出版)によれば「感覚器官のうちで文明度が顕著にあがったのは味覚の感覚だった」とある。ジネスト氏も認知記憶障害の人がさいごまで強く残る感受性は味覚、スパイスが大事だと語っていた。

では、認知記憶障害のある高齢者の人を前にして、先の四つの柱によるユマニチュードに基づいて、〈世話するヒト〉になってみよう。
   1 見つめる (愛の表現)
  ・見ないことは「あなたは存在しない」と告げること
  ・水平に見つめる →平等な関係を伝える
 ・正面から見る →正直である
  ・近くから見つめる →やさしさ、親密さ
 ・長く見つめる →あたたかさ 
2 話しかける (トーンをやさしく)
  ・沈黙のケア現場に言葉をあふれさせる(オートフィートバック)
  ・「手をあげてください(3秒待つ)いま、背中を拭いていますよ
…あたたかいですね …きれいになってきもちいいですね」
3 触れる (優しさを相手に伝える)
   ・体に触れることは脳にふれること
   ・「ひろく、やわらかく、ゆっくり、なでるように、包み込むように…」
   ・触れることは自由をもたらす    
4 立つ (知性の根幹、人間であること)
   ・1日に合計20分間立つことができれば、寝たきりになることはない。
・人は死を迎える日まで、立つことができる。
   ・身体整容や清拭を1日30分立った状態ですれば寝たきりにならない

あらためて、「介護するということは目を見つめて話しかけ、眼差しとことばによって、あらゆるものを失った人たちの揺るぎない主権を認識することである」。
触れるということは、相手を生かすことができるものでもあれば、ほとんど悪意のないまま殺すことができるものでもあること。けれど介護をするために相手に触れる。この避けられない馴れ馴れしい行為を、しこりを残すことなく受け入れてもらえるようになるには、並はずれた技量と繊細な配慮がなければならないだろう。


2016年11月24日木曜日

日本のホスピスが忘れてきたもの


―三人の会(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)鼎談企画によせて
(日本ホスピス・在宅研究会全国大会in久留米 2017.2.5.


●日本のホスピス40年をめぐって
西欧に誕生したホスピスの近代史を押さえようとすれば、19世紀初頭アイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動「死にゆく人々のためのホスピス」に端を発しておよそ200年。シシリー・ソンダースによる近代ホスピスの誕生(セント・クリストファー・ホスピス 1967)からは50年。では、わが国のホスピスはどのような経緯で今日にいたっているのか。概略次の3期に分けてみることができよう。

第1期。 セント・クリストファー・ホスピス(1967設立)が、わが国に紹介されたのは10年後の1997年。新聞見出しは「天国への安息所・英国の『死を看とる』専門病院」(朝日新聞7月13日夕刊)。この年、日本死の臨床研究会が発足した。
わが国のホスピス誕生の契機は1980年にロンドンで開催された第1回世界ホスピス会議(会期5日間・16カ国68人参加)に精神科医・柏木哲夫氏、チャプレン・斎藤武氏がオブザーバーとし参加。そして翌年の1981年に聖隷三方原ホスピス、1984年の淀川キリスト教病院ホスピスが誕生。ホスピスは揺籃期に入った。

第2期。 1990年WHOの指針にしたがって、ホスピスは緩和医療、緩和ケア病棟(がんとエイズに限定)として医療保険制度に繰り込まれ、終末期医療(ターミナルケア)として認知されることになった。この時期、外科医からホスピス医に転進したのが山崎章郎医師。「病院は(がんで)亡くなっていく人の力にはなれない」と著した『病院で死ぬということ』(1990)はベストセラーとなり、映画化されホスピスは市民権を手にした。ちなみに日本ホスピス・在宅ケア研究会の発足は1992年。

そして第3期は21世紀。 長寿社会の到来と重ねてみることができる。介護保険法の施行(2000年)に始まり、がん医療の均てん化を重視したがん対策基本法(2007年)をベースに、在宅療養支援診療の強化、地域包括ケアシステムといった態勢が整備されるなかで各地にホスピスの裾野はひろがってきたようにみえる。

けれど、「日本にホスピスは根づいた」といえるだろうか。名著『ホスピスへの遠い道』(春秋社)の著者岡村昭彦(19291986)は、発表当時(1984)、「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは施設ではなくて運動なのだということをまず認識してもらいたい」と釘をさしていた。そして、「地域社会との結びつきがないホスピス運動はホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう」こと、「ホスピスはコミュニティのなかで、一人一人が参加できるボランティア活動」である、といった言葉を遺している。大きな変動期にある現在、ホスピスの原点から遠ざかっているのではないか、検証してみる時期にきているのは間違いない。

●近代ホスピス運動の原点に立って考えてみる
そこで討議テーマは「日本のホスピスが忘れてきたもの」となった。
何を忘れてきたのか。この課題に向き合うには恰好のテキストがあった。前述の第1回世界ホスピス会議(1980)の課題に立ち返ってみることである。
大会記録は1981年に“Hospice : the living idea”として出版され、わが国では岡村昭彦監訳『ホスピスケアハンドブック――この運動の反省と未来』として刊行(家の光協会 1984)され、ソンダース女史没後には追悼記念出版として『ホスピス―その理念と運動』(雲母書房2006)と原題に戻して再刊された。5日間にわたって討議された全8章のテーマを掲げてみる。
① ホスピスの思想
② ひとつの生き方としてのホスピス
③ 死期を迎えるための哲学
④ 今日の痛みの概念
⑤ 死にゆく患者の症状の緩和
⑥ 運動神経系疾患に対するホスピスケア
⑦ 世界に広がるホスピス運動
⑧ 成果、失敗、そして未来:ホスピスを分析すると
これらはシシリー・ソンダースの思想とセント・クリストファー・ホスピスの設立理念にそったものだが、今日も何一つ旧いテーマはない。ひとつの生き方としてのホスピス、死期を迎えるための哲学。さらに運動神経系疾患(ALS)に対するホスピスケア100例の紹介などは、がん患者にのみ目をむけてきた日本のホスピス運動がいかに視野狭窄で、「いのち」という視点が欠けていたことがわかる。
あらためて、「日本のホスピスが忘れてきたものは何か」。やはり、「(ホスピスの)成果、失敗、そして未来」という視野に立つ試みということになる。思想としてのホスピス、運動としてのホスピス、臨床としてのホスピス等、重いテーマがまっている。
今回は、日本のホスピス運動の渦中で牽引してきた山崎章郎氏と、在宅ホスピスに取り組みながら、アジアのホスピスにも関心を示す二ノ坂保喜氏と、「(日本が)忘れてきたもの」だけではなく「新たに身につけたもの」を探り、語り合えればとおもう。

わたしの視点を添えれば、いま私たちの生活地平には「メメント・モリ(死を想え)」という重い視界がひろがっている。阪神淡路大震災(1995)から東日本大震災(2011)に福島原発のメルトダウン――わたしたちは、未曾有の死の体験を共有している。この間にはいのちに寄り添うNPO法人の立ち上げをはじめ、市民ホスピス運動の試みがある。そこに触れたいとおもう。

2016年10月11日火曜日

「手術死」と「がん死」



●「手術死」は医療事故?
新聞の切り抜きを整理をしながら、いつもなら指して気にもとめない病院死にふれた記事にであった。
その一つは群馬大学病院の手術死問題だった。2014年、群馬大学病院の男性医師の腹腔鏡や開腹の手術を受けた患者18人が術後あいついで死亡した経緯について第三者調査委員会の調査報告に関した記事で、この夏、担当医師を懲戒解雇相当にし、他に指導教授等9人の処分で落着したことは各紙が大きく扱ったのは見出しで追ってもわかる。
「手術死続発を放置 収益優先手術数競う」「患者の安全軽視 医師、問題意識なく執刀」「二つの外科に深い溝 専門が同じでも口きかず」など、大学病院内の機構に問題があったという指摘が多かった。そのなかで、一紙だけ、「病状や体調から手術は無理な例や、手術の妥当性に疑問がのこる例が半数を占めている」と指摘していた(読売新聞「群大手術死・教訓(下)」2016.8.3朝刊)。
手術ができるはずはないなかで、なぜ「手術死」が相次いでおきたのか。病院の関係者の間では「最後の砦として重症患者を引き受けているから」という考え方が根強かったという。「人手が少ないのに手術したのが悪いといわれればそうかもしれない。ではやめようとなったときに誰が(治療を)引き受けるのですか」と。
「患者のため」を見失った次のような医師のことばがあげられている。
「『手術さえしてくれれば』と思い詰める患者もいる。実際には手術をするメリットが小さくても『できる』といって手術をしてしまう」
「手術をしない選択肢を示すと、患者が『見捨てられた』と感じて落胆する」
一方患者遺族の声からは「今なら手術できるといわれた。そう言われたら今を逃したら治らないんだ」と手術を即決したともいう。

これらのやりとりから、医療者と患者家族のあいだには「手術」ということばは外科治療としてではなく、治癒・生存には不可欠な手段、さいごの砦として思いが一つになって共有されていったということだろうか。「手術」はどこかの段階で治療・治癒が目的ではなく、「死」を打ち消すための医療行為のように――。たしかに重い病気ほど「手術」が期待される。いまや生死を逆転させる「移植手術」まで可能になったのだから。
「(手術は)できるか、できないか」「(手術を)やったほうがいいか、やらないほうがいいか」、そして「手術止めていれば…」。この問い詰め方は臨床技術からだったのか、いのちの受けとめという場所からだったのか。それを見失ったとき「手術死は医療事故」というところに落着したというのだろうか。

●「がん死」は自然死への道?
二つ目は、「がんの罹患年齢がに高齢化、将来寿命と一体化も」という記事である(北海道新聞 2016.7.3朝刊)。
がんはすでに国民病といわれ、①日本人の二人に一人は、がんになる。②三人に一人ががんで死亡している。そして、③今後、日本人の二人に一人ががんで死亡するといわれてきた。ところが、事態はさらに促進している。
「近い将来、寿命の限界に近づく頃になって、はじめてがんが見つかり、がんで亡くなる時代が来る」という。札幌がんセミナー理事長・小林博北大名誉教授(腫瘍学)が日本がん予防学会で発表した。厚労省の人口動態統計などからがん死亡年齢はおよそ30年前より10歳以上延びて平均で男女とも70歳を超えている。がんの罹患年齢についても10年間で10歳以上伸びていずれも70歳代である。つまり、がん患者になるのは高齢になってからであり、長寿を全うする人のほとんどががん死になるという報告である。

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現代の平均寿命の特徴は生命曲線図(図表)で見ることができる。Aは自然な原因による死亡率(明治時代の平均寿命は42歳)。ゼロ歳時で100%生存、20歳で約半分、40歳を超えて生きる人は長生きをする。では「2025年」問題Aと呼ばれている団塊の世代は75歳頃までは現役で多くの人が顕在であるが、このゾーンに入ったらばたばたと亡くなっていくことになる。小林氏は「今後は80歳、90歳と延びると予想されるが、がんが寿命と一体化するようになれば、がんは積極的な治療の対象でなくなるかもしれない」と。ここまで来ると、この死はがん患者の死ではなく、自然死のひとつ、老衰死に相当する「がん死」ということになる。

これらの記事から何を受けとったらいいのだろうか。長寿社会の未来がひらかれたというのではない。けれど「手術死」とか、「がん死」とか、「自然死」とかの概念が、微妙にスライドしながら新たな模索をはじめているようにみえる。
ここに「高齢者」も付けくわえてみよう。年寄りや老人がすり替わったのではない。また、厚労省が規定する70歳以上の人が「高齢者」ではない。ここで、自らの年齢に即して口にすれば、長寿社会の老年期をいきる新世代として「高齢者」と呼ぼうとおもっている。同時に、やがてその先に訪れるだろう超高齢の世界を、わたしは老揺期(たゆたいき)と呼んで、できることなら「介護を受ける」よろこびを手にできたらとおもう。

2016年9月22日木曜日

エンディング・ノート「いのちの選択」



○救急車さわぎの背景にあるもの
この夏、救急車さわぎがあった。一人暮らしの90歳男性が熱中症で死亡。発見されたのは2週間後の9月はじめ。男性には弟妹二人(いずれも80代)がいた。半径100㍍以内の同じ5丁目町会だが、今年に入って訪問しあうことはなかったという。知らない人ではなかった。新聞記事やテレビニュースではなく、わが家の鼻先での出来事だったのだ。
その一方で、心肺停止状態の高齢者が救急搬送される事例も各地で増えている。長野市民病院救急センターでは、救急搬送は年間約90例。そのうちの半数が85歳以上の超高齢だという。一緒に暮らしている老父母の呼吸がとまっている現場にたちあえば救急車を呼んでしまうかもしれない。呼べば救急センターに搬送され、蘇生を受けることになる。挿管され、点滴が行われ、器械による心臓マッサージが施され、「穏やか」な死とはほど遠い環境に遺体が置かれてしまう(「長野医報」6月)。
これらは、いま、全国各地のどこでもおきている医療事故だといっていい。
なぜ、防げないのだろうか。医療社会の直中にあって、住民の交流が減り、掛かりつけ医や施設の嘱託医などとの関わりもうまく機能していないからだ。要は、地域社会のなかで住民と医師との連携がうまくできていれば防ぐことはできるはずなのである。

○信州・上田市のNPO法人「新田の風」の試み
そこで、紹介したいのが長野県上田市新田地区の医師井益雄(い内科クリニック院長)さん。井さんは、かつて「信州に上医あり」といわれた故若月俊一医師(長野県厚生連佐久総合病院)の薫陶を受けた一人で、1980年代の終わりには、佐久地域で36524時間体制の在宅医療を始めた医師で、当時家族の介護負担を軽くするため、浴槽を家に持ち込む「お風呂カー」が走らせたという挿話もあるほどだ。井さんはその後上田市でクリニックを開業。
資料によれば上田市は人口12万人。新田地区は1712世帯、ざっと4千人(男1900人 女2071人)。そのうち65歳以上の高齢者は1056人(男478人、女578人)。高齢者率は266%。そして65歳以上単身世代は561人(男263人、女288人)。高齢単身世帯率は328%。
4人に1人が高齢者、そのうちの3割が単身世帯という地域での医師の役割はなにか。井さんは、これまでの経験から「在宅ケアはコミュニティのケアだ」という考えをさらに一歩踏みこんで地元自治会をベースに診療所、薬局、福祉関係者による「安心して老いを迎えられる街づくりチーム」を発足(2010)させた。住民自らの手による介護の社会化は次のような流れでとらえられていた。
①元気なうちは社会参加交流、つまり仲間づくり。
②要介護者になれば、その人を在宅でささえる。つまり支援の輪をつくること。
③やがて、世話になる。つまり、順番に必要に応じて支援される。
④施設の自宅化。つまり、施設に入っても自宅の雰囲気を(小規模多機能施設)。
⑤自宅の施設化。つまり在宅を支えるチーム訪問。
井さんは地域住民の一人として新田地区自治会にはたらきかけ、3年かけてNPO法人「新田の風」(http://www.shinden-kaze.org)を立ちあげ初代理事長としてスタートをきった。そして小規模多機能居宅介護施設「新田の家」を誘致(2014)、住民交流の場「ふれあいサロン ~風~」もオープン(2015)した。

○エンディング・ノート「いのちの選択」
「新田の風」の立ち上げによって、住民間で交流を深める基盤は整った。これからは、介護者の役割を担える人材を育てることであり、そこに診療所、薬局、福祉が連携をとりあって地域全体を支える道をつけることだった。そこで井さんが「新田の風」の事業のひとつとしてまっさきに掲げたのが「エンディング・ノート」の作成。終末期の意思を示す簡易版シート「いのちの選択」である。

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「病名・病状の告知」「余命の告知」「終末期の医療」「延命治療の有無」「最後の時はどこで迎えたいか」の5項目で、選択肢から希望する内容を選んでチェックを入れる方式だ。
たとえば「終末期で、望む生命維持処置は」の項目では ①心臓マッサージなど心肺蘇生 ②人工呼吸器 ③胃ろう ④延命措置は望まず自然死を希望する ⑤すでに「尊厳死宣言書」を作成した といった5つの選択肢が用意されている。そのうえで「家族の同意蘭」「本人」の署名捺印。
このシートは、上田薬剤師会の協力で薬局内に置かれ、「お薬手帳」に貼りつけておけるようになっている。「お薬手帳と一緒に保管されれば、救急搬送時にも医師の目に留まりやすいだろう」というのが井さんの主張である。
そして「いのちの選択」シートには、「健康状態等により考え方が変わった場合は、新しいものを添付しましょう」と明記してあるのが特徴だ。病状等の変化によって、意思表示は可変的であること。「まだ決めていない」など、患者のこころの揺らぎも受けとめられている。いずれにせよ、「元気なうちに自分の行く末を決めておくこと」を地域包括ケアの指針の一つとしている医師は、まだ少ないにちがいない。
井さんは言う。「ゴールは安らかな看取りです」


2016年7月31日日曜日

老揺(たゆたい)期を伴奏する


半年前、「いのちを考えるセミナー」の常連のひとり佐賀県の在宅医K・S子さんから「老揺(たゆたい)期 に入った78母が入院、ついに私が主介護者に」と率直に胸の内をひらいたメールが届いた。そのポイントをあげてみよう。
① 昨年秋まで自宅でほぼ自立した生活を送っていた母が、胸椎圧迫骨折を受傷し入院。下肢の麻痺や排泄障害を呈し、一時寝たきりとなった。さらに入院後、強い幻覚と妄想に襲われ、深夜に「知らない場所に移されたから助けに来てほしい」、「ベッドに犬小屋をたてられた」などと携帯電話で私に連絡してきた。軽いパーキンソン様症状もあり、レビー小体型認知症と診断された。
② 認知症ケアはまず「寄り添う」ことが大切とされるが、いざ当事者になってみると認知症介護に伴う心身の疲労だけでなく、親がどんどん変貌していく様子に悲哀と、「過去(健康なとき)のあの母にはもう会えない」という喪失感に思いが乱れている。
③ この思いは介護専門員や医療者は抱かない感情だ。5年前医師として認知症の人と家族会の世話人を引き受けてきたが、はたしてこれまでご家族の気持ちにどこまで共感しえていたのか、経験と理解が不足していたと痛感している。
④ 同時にまた、家族や身内ではないから医師として寄り添えたのではともいえる。母親の介護 を正面から受けとめ、これからが医師として正念場だと考えているー。
「老揺(たゆたい)期」→五官の老衰、認知症等がみられる還りのいのちのステージ。

わたしはK医師の思いに共感しながら、気になったので次のような返信メールを送った。
「こころの内は十分に受けとめました。けれど、誤解をおそれずにお伝えしたいのは、この状況は医師としてではなく、娘としての正念場だと受けとめるべきかとおもいます。娘の代役はいません。いわんや専門家(医師)と家族(娘)の役割を同時に引き受けるのではなく、まずは医師(専門家)を降りること。主治医は誰かに替わってもらうこと。そして、医師としてではなく家族(娘)として、それこそ『ぼけてもいいよ』というポジションを母のまえでしっかり見せることだとおもいます」と。

●ファミリー・トライアングルという構図
ここで思いだしたのは、介護保険法が施行される前後の10数年、6畳間にベッド二つを並べ寝たきり状態になった義父母の介護体験である。とはいえ、わたしが何をしたというのではない。娘(妻)の役割を基点にしたうえで私の立ち位置(3番目の役割)が問われていたことだった。からだが不自由になった老揺(たゆたい)期の義母、義父を支えるにはそれぞれ三角形・鼎のかたちになっていることが必要だった。そこでわたしが象ったケア・メソッドがファミリー・トライアングルだった。
ここで介護するという場合、老親(患者)を中心において家族や専門家(医師・看護師・介護者)が周りを囲むというかたちではなりたたない、支えることにはならない。わたしにはこの確認が最初にあったことである。つまり、老親を支えるには、[娘―義父(義母)―医師]、または[娘(妻)―義父(義母)―私]という関わり方が三角形(△)のかたちになっていること。そのためには三人目の役割を(自覚的に)引き受けてはじめて支える関係ができる。わたしは、このケア構図をファミリー・トライアングル(FTと名付け著したのが『「還りのいのち」を支える』(主婦の友社 2002年)だった。
要するに「共にある」というポジショニングが大事におもわれた。そこで、わたしはもうひとつサッカーの陣形としてのトライアングルとも重ねてみた。ゴールにむかって息をあわせボールを蹴るのだが、そこでは、コーチング(呼びかけ、指示)とアイ・コンタクト(目で合図する)が欠かせない。なによりトライアングルは3人目、3番目との連携と距離によって変わってくるだろう。
だから、3人で正三角形をつくることではない。それぞれの立場や関係によって三角形の辺の長さや角度は異なるのはいうまでもない。たしかなことは「三角形の内角の和は2直角(180度)」という支えあう構図をしっかり産み出すことだとおもっている。

老揺(たゆたい)期を伴奏する
至近な母親の例をあげてみよう。連れ合いを亡くして15年、老揺期(要介護度2 93歳)、独り暮らしを続けた郷里(奥出雲)を離れて、現在は娘(次女)家族が住む松江市内の居宅型老人ホームに移って3年になる。そこでのファミリー・トライアングルの第1は[娘(次女)―母親―孫娘(看護師)]。近隣に住む二人、とりわけ母親―孫(看護師)が大きな安心につながっている。これをベースに第2のトライアングルとして[娘(次女)―母親―娘(長女・大阪在住)]。さらに[長女(大阪在住)―母親―孫(看護師)]、そして私の関わりは[長男(東京)―母親―妹(次女)]など。相談事では母親抜きのトライアングル[長男―看護師(孫娘)―長女]といった場合もある。
こうしたファミリー・トライアングルの形成は、遠距離の感覚とか、役割分担の交替などによって、いわゆる要介護度を親和度にかえることもできるとおもっている。さいわい母は耳も達者で、携帯電話(かけ放題)を手放さずことなく主役の座におり、いまのところコーチングとアイ・コンタクトは滞ってはいないとおもう。
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さて、先ごろK医師からメールをいただいた。
「母の疾患は新たな主治医に、わたしは母の老揺期を共に歩むことにしました。さいわい母は平穏に落ち着いています」と。