2015年2月26日木曜日

アイ・コンタクト 後藤健二さんの死(続き)


フリーランスという死に方
後藤健二さんの人質事件が判明した直後に朝日新聞の「天声人語」はこんな語り口で始めていました。
『戦争や紛争のさなかで取材するジャーナリストは、様々な危険に出くわす。敵意を持った相手もいる。1960年代、「泥と炎」のベトナム戦争でまず名をあげた日本人カメラマン岡村昭彦は、笑顔が大事という持論を持っていた。「世界のどこへ行っても、相手が拒否できない笑顔を自分がもっているかどうかで、生き延びられるかどうかまで決まる」と。しかし、その笑顔も、相手が狂気じみていては、いかんともしがたい』(121日)

岡村はたしかに「相手に拒否されない笑顔(とアイ・コンタクト)」は、文化圏の異なる地域に足を踏み入れる際のフリーランサーのたしなみだといっていました。また、アフリカの戦争取材でアジア人として最初に取材した1968年のビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)では「笑顔も猛獣には効かなかった」と笑い話にしたことがあります。
その岡村が亡くなって30年、もし生きていたらフリーランスの戦争写真家の先輩として後藤健二さんの死について、どう語るでしょうか。すると即座にわたしの耳に「(後藤さんの死は)不注意な死」という声が聞こえてくるのです。

「不注意な死」とはどういうことでしょうか。
岡村は戦場取材の当初、一本のたばこは兵士を和ませ、うち解けあうのに欠かせない「笑顔」に次ぐアイテムとして重宝していました。ところが、たばこの煙と臭いが一瞬のうちに戦闘の標的にされた例をあげました。
「弾丸の飛びかう戦場の姿を、そのまま世界中の人に送りとどけ、戦争の無意味さを訴えようというのだから、いつかは死に見舞われるであろう。だが、その危険なしに戦争の報道はできない。私はこの戦場の取材が、どのような条件でも可能なように、からだを鍛え、経験を重ねてきたつもりだ。だが、従軍記者として、未熟のまま死ぬのはいやだった。そして、未熟のほうが死の危険率はたかい。ちょっとした(・・・・・・)不注意(・・・)が死に直結したのを私は何回も見てきている」(「ラッキー・ショット」から)
彼にとっては予測を超えた思いがけない死もまた、不注意な死なのです。

岡村はその後も、行方不明・死亡説が流れたほどの危険な地域に足を踏み入れました。南ベトナム民族解放戦線の捕虜収容所に53日間も収容されましたが、当時の副議長との貴重な会見にも成功しました(1965)。入国取材禁止明けの5年後にはベトナム戦争中最大の侵攻作戦(1971)に単独ルートで従軍し“証拠力の強い”写真によってアメリカ軍撤退を「LIFE」誌にスクープしました。この間の取材ではライフ誌カメラマンのラリー・バローズを始め沢田教一、嶋元啓三郎ら多くのフリーランスカメラマンの死が伝えられましたが、このとき、岡村は彼らの死を「不注意な死」だと言いきり、「私も(戦場で)死ぬときは不注意で死ぬだろう」(「フリーランス・ウオー・フォトグラファーの死」1972年)と記しています。
ここで「不注意な死」は、戦場カメラマンとしてのスキルに留まらないフリーランサーとしての生き方を律する自らへのきびしいいのちことばになっていました。

戦争写真家といえば、著名なロバート・キャパ(1913-1954)がいます。スペイン戦争から第二次大戦へ。「敵弾に倒れる義勇兵」は戦争写真の決定的なイメージをつくりました。近代戦争の戦場を「画家のカンバスのように記録した」(ジョン・スタインベック)というキャパもインドシナ戦争の渦中の1957年、ホー・チ・ミンがディエンビエンフーの要塞を陥落させた直後、ベトナムのメコン・デルタで地雷原にふれてあっけなく死亡しましたが、ここでも岡村はキャパの死は第2次大戦後の戦争を見誤った「不注意な死」と断定していました。
地雷原が出現するのは第2次大戦後、核戦争が危惧される時代の高度なゲリラ戦争に呼応した兵器の一つでした。ヘリコプターが戦場に出現するのはその後間もなくのことです。つまり、地雷原を踏んだキャパの死は広島・長崎への原爆投下後の高度化した戦闘戦略を見誤ったか見逃したがゆえの「不注意な死」という見解だったのです。

では後藤健二さんの死はどうだったでしょうか。岡村がいう「不注意な死」を振りかざして断定しては21世紀の歴史認識を欠くことになりそうです。なぜなら私たちが立ち会ったのは、情報ネット社会を戦闘ステージに見立てた戦慄と恐怖を戦略にしたかつてないものでした。しかも、戦場とはいえ私たちの日常生活の事件として反映させたことです。とはいえ、世界地勢図のなかの中東アラブ諸国の現実を垣間見ることもできないのです。
けれど、後藤さんの死を文字通りの「人質としての死」とみるとどうなるでしょうか。すると、長い間世界史に登場しなかった宗教国家が台頭し突出してきた構図はみえます。つまり、イスラム原理主義という宗教的な迷妄と欧米の文明史的な略奪が正面から向きあった姿です。そのクレバス・裂け目に無辜(むこ)の人が宙づりにされ、取引の対象にされたのではないか、それが後藤さんの姿だったのです。この死を蛮勇の死とは、誰もいえないはずです。

後藤さんの本『ルワンダの祈り』や『ダイヤモンドより平和が欲しい』、前回引用した『もしも学校に行けたら』からは、死線をこえて手にした光景が示され、そして後藤さんの語り口や眼差しは未来を信じる少年や少女に向けられていることでした。後藤さんのつぶやきをひろっておきます。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟だった。」(2010年9月7日のツイッター『週刊朝日』2/22より)
「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人のおろかさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸を締め付けられる。声を出して、自分に言い聞かせないとやってられない。」(201012月1日のツイッター『週刊朝日』2/22より)


2015年2月14日土曜日

フリーランサー 後藤健二さんの死


フリーランスという生き方
フリーランス・ジャーナリスト後藤健二さんがイスラム国によって殺害されて間もなくの2月4日、政府自民党の高村正彦副総裁は、後藤健二さんのシリア入国は「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇(向こう見ずの勇気)といわざるを得ない」とコメントしました。さらに「亡くなった方にむちを打つためにいっているのではない」「後藤さんの遺志を継ぐ人たちには、細心の注意を払って蛮勇にならない行動をしてほしいからだ」というダメだしをしていました。

この発言にわたしは同感も同意もできませんでした。なぜなら、こういう物言いができる(あるいは、同意できる)人は、危害が及ばない、安全な場に身を置いている人に限られるだろう、そう思うからです。もうひとつ、後藤さんの行動はフリーランス・ジャーナリストとして逸脱していたのでしょうか。なによりも後藤健二さんの死は蛮勇死ではなかったとおもうからです。

新聞・テレビ等の会社組織のジャーナリズムに所属しているスタッフ記者なら、イスラム国の中枢のゾーンに派遣されることはありえません。危険だからです。元NHKのジャーナリスト池上彰氏は面識のあった後藤さんの行動に関連して語っています。
「…NHKだけがバグダッド支局を維持しましたが、民放はみな撤退しました。それでも、現地の映像やリポートが欲しい民放が頼ったのが、後藤さんのようなフリーランスという微妙な立場のジャーナリストでした。フリージャーナリストなら、会社の責任ではなく『勝手に』紛争地に行って、『勝手に』取材してくれる。すべてのリスクを彼らに背負わせて、何かあったら自己責任というわけです。そういう世界で生きている後藤さんだからこその判断ですね」(『文藝春秋』3月号 佐藤優氏対談「イスラム国との『新・戦争論』から」)

ランスlanceとは槍のことで、ランサーとはその槍をもって闘う中世の槍騎兵。フリーランサーあるいはフリーランスとは自由騎士。槍一本とそれを扱う技術と戦場体験に勇気を元手に自分を必要としている領主と契約するプロの騎士ということになります。
フリーランス・ジャーナリストで、戦争報道写真家の先駆者といえば、1960年代のベトナム戦争取材で知られる岡村昭彦(1929-1985)がいます。岡村は「二度と武器を持たぬと誓った日本人の一人として、私が戦場にもってゆく武器は、ちいさなカメラだけだった。カメラが、私の武器だった」と述べていました。殺し合う戦場でのジャーナリストの武器をカメラに見立てました。彼はたぶんに倫理的な動機からフリーランサーとして戦争を記録(「南ヴェトナム戦争従軍記」)したのでした。

では後藤健二さんはどうだったでしょうか。わたしが見た数少ない後藤健二さんの取材映像で明快だったのは主語が常に「わたし」であり、「わたしの視線」としてメッセージが届けられていたことです。また、著書等からも、後藤さんの資質からくるフリーランサーとしての生き方が十分に見て取れるものでした。
中東を取材した、比較的早い時期の『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』(汐文社)から拾ってみます。
『「対テロ戦争」「テロとの戦い」とわたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの人たちの生活がズタズタに破壊されていることを、知らないでいたのです。あるいは知らせずにいたのです。自分は、いかに盲目的だったかと激しく自分を責めました。アフガニスタンの戦争は、まったく終わっていません。それどころか、世界を巻き込んで広がっています。その中でわたしたちにできることは、さまざまな方法で、彼らに手をさしのべ続けることなのではないか、そう思います』

あらためて、後藤さんもまた、ひたすらにフリーランスの道程を歩むほかなかった人であることがわかります。(この稿は次回に続きます)